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『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/16(日) 01:00:06

  Kina さんのBlog 『まじめに考えるヒント』 の 『世界のあり方』
       『科学的世界観は決定論か? その2

 Kina さんから、『科学的世界観のblog』にコメントをいただきました。『自由意志
 そこでのやりとりで、この『科学的世界観の掲示板』でというご了解を得ましたので、ご期待にそえるものかどうかは分かりませんが、これについての私見を述べさせていただくことにしたいと思います。

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 ◆意志が身体を動かすことは、自然法則に反するのか。

>精神が物質に働きかけることはあり得ないと言う人々がいます。彼らは精神が物質の運動の原因になることが、あたかも自然法則に反する現象であるかのように考えているようです。

 「精神」とか「物質」という言葉は、どういうものを意味しているのでしょうか。これらは日常的によく使われる言葉で、何となく分かったような気にもなりますが、よく考えるとその実体は何なのか、私にはよく分からなくなります。特に、「精神」という言葉がこの場合に何を指しているのか、具体的に何を意味するものなのか、果たしてどういうものなのか、私にはうまくイメージがわきません。
 思いつくままに、電荷、エネルギー、光、色、振動、波、質量、情報、プログラム、信号、記憶、演算、制御、知能、本能、・・・は、「物質」なのでしょうか「精神」なのでしょうか。電荷や重力が「物質」に働きかけても、電気エネルギーがモーターの運動の原因になっても、制御信号が装置に働きかけても、ロボットの演算装置がその運動の原因になっても、自然法則に反する現象とは私は考えません。
 同じような意味でなら、「精神」が「物質」の「原因」になったとしても、「自然法則に反する現象」とは私は思いません。でも、「精神が物質に働きかける」というような主張をされる方は、「精神」というものを「物質」とは違って自然法則に反するもの、自然法則を超越したもの、というふうにとらえている場合も多いのではないでしょうか。

>しかし、手を挙げようと思えば手が挙がります。手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。このようなことは、私たちが日常的に見ていることです。

 おっしゃるとおりだと、私も思います。

>すなわち、意思(精神、意識活動)は、物質を動かす原因となっています。これが何故問題になるのでしょうか。

 さて、「原因になっている」というのは、どのような意味なのでしょうか。
 もしも原因の連鎖を遡るとするならば、一つの方法としては、筋肉の収縮とか、ATPの関係する化学反応とかから始まって、ニューロンの発火とかいう話にすることもできるでしょう。その一連の流れの先のどの場所で、あるいはどの時点で、「意思」というものと出会うのでしょうか? そこで「精神」はどのような仕方で「物質」を動かす「原因」になるのでしょうか? そこが「問題になる」のではないでしょうか。

 ちなみに、「意思」、「精神」、「意識活動」という三つの言葉が意味するものはどういうことで、それらはどのような関係にあり、それぞれがどのようにして「物質を動かす原因」になるのでしょうか。私にはよく分かりません。

>人間は、肉体と精神を持っており、肉体は物質からなっています。精神が物質を動かすことができないものならば、人間の身体を意思により動かすことができるはずがないことになります。
しかし、彼らも精神が、脳という肉体すなわち物質により、生じていることは認めているようです。物質により生じるのであればなぜ、物質に反作用することがあり得ないのでしょう。

 仮に肉体が「物質」から成っており、「精神」が脳という肉体より生じているとするなら、
・ 「精神」というものは「物質」から生じているものであり、したがって一種の「物質」現象である、
という帰結を導くこともできるでしょう。もしもそうだとすれば、
・ 「物質」とは何か根本的なところで違った「精神」というものが、「物質」に「反作用」をする、
などと、ことさら想定することは必要はないのではとも思えます。
 「物質」から生じたものが「物質」に働きかける、作用するというのは、ごく普通のありふれた「物質」現象、ということも言えるでしょう。

◆物質は主体性を持たないのか

>そもそも物質と精神とを相互作用しないのものと考えたり、一方向のみの作用として考えたりするのは、疑問です。むしろ精神の主体性は物質の特性の発現ととらえるべきではないでしょうか。

 何かが「物質の特性の発現」ということであれば、その「物質」の特性を研究するというのが、自然なあり方だと私は思ってしまいます。そうすると、「物質」とは別の何かを特に想定して、それと「物質」の「相互作用」などということを、改めて言う必要が特にあるようには思えないのですが。

>主体性を持たない物質という概念は、力学の質点などと同様に、当面理解しやすいように作られた架空のモデルではないかと思います。科学においては、当面の研究の対象となる側面以外を捨象して、研究を進める研究手法とられることから、そこでは常に物質のもつ原始的主体性は、問題になることはなく、無視されてきたのであり、その結果、科学における物質観が「主体性を持たない物質」となったのではないかと思います。

 この文脈で、「主体性」という言葉が何を意味するのかは十分に理解できてはおりませんが、「主体性を持った物質」というものが、原理的に自然法則に従わないもの、超越したものということを意味するとするなら、そういうものの存在を認めた時、そこで科学は事実上手を引くことになるものと私は思います。そういうものが科学で扱えるとは思えませんので、おそらく哲学や宗教に任せることになるのでしょう。
 一方で、原理的に自然法則に従うものであるとするなら、通常の科学の範囲内で取り扱っていれば済むことだろうと私は思います。ことさら「主体性」を取り上げる必要があるとは思えません。

◆物質が主体性を持つという根拠

>物質が主体性を持っていることは、次の2点からも明らかではないでしょうか。(1) 人間の意識活動が脳の物理化学的変化により、大きく影響されることから、人間の精神すなわち意識活動は、脳という物質によって営まれていること、そして、(2) 脳という物質によって営まれている人間の精神が、主体性を有すること、の2点です。

 (1)については、私もまずは同意見といって差し支えないのではないかと思います。
 ところで、(2)は、それがまさにここで問題とされていることなのですから、このように言ってしまうのは、論点先取りということにはならないでしょうか。

>物質の主体性は、素粒子から、化合物、単細胞生物、そして人間に至るまでの無限の階層をなしています。人間の脳のような高度に組織化された主体性から見れば、素粒子の有する原始的な主体性などというものは、ほとんどないも同然ですが、ゼロではないはずです。

 ここでは、「主体性」という言葉で何を指しているのか、それが何を意味するのかを明らかにすることが、まず必要だと思います。科学的知識や事実、法則に従わない、という意味であるとするなら、それに従う「素粒子から、化合物、単細胞生物」を持ち出しても、あまり意味はないのではないか、という気がします。それらも従わないとするなら、それは科学とはたぶん無縁の、哲学や宗教や詩的な想い、というようなことになるのではないでしょうか。(それが悪いとか間違っているという意味ではありませんが。)

◆物質の主体性の組織化の階層

>物質と主体性切り離したとらえ方は、人間が物質からなることを最初から否定するものということができます。

 そうなるとは、私には思えません。

>また、無生物においても、地球内部の活動、星の誕生や消滅など、宇宙は、物質のみの主体性によりダイナミックな活動をしておりますし、原子や分子も静止しているものはありません。

 そうではないかと私にも思えますが、私はそれを「物質の主体性」とは呼びません。そう呼ぶことによって何かが変わるとすれば、なんとなく気休めになる、その代わりに無用の混乱をもたらす、というようなことになる気がします。

>これらは、単に自然法則にしたがって運動しているだけと、とらえるよりも、物質本来の主体性ととらえた方が良いように思われます。

 なぜ良いのか、どのように良いのか、私には分かりません。

>もちろん、これらの運動には人間の精神の主体性のようなものとは全く異なるものであることは言うまでもありません。それは人間の脳のような、物質の主体性を精神として組織化するメカニズムとは異なるものです。

 メカニズムが異なるというなら、「無生物においても、地球内部の活動、星の誕生や消滅」、「原子や分子」、「人間の脳」、それぞれに異なるところがあるだろうと私も思います。
(続く)



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