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:『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/16(日) 01:06:11

(続き)
◆究極の選択肢

>問題は次の二つのうちのどちらを選ぶかということだと思います。
(1) 主体性を持った精神の働き(自由意志)は、自然法則に従う物質の運動によりもたらされた「幻」であり「錯覚」である。
(2) 脳で営まれる意識活動がそうであるように、精神は物質に働きかけることができる。

 (1)では、「幻」「錯覚」ということがどういうことなのか。たとえば、
・ 「物質」以外はすべてそうだというなら、「物質」ではない「精神」は「幻」「錯覚」ということになるのかもしれません。一方、
・ 自分の「主体性を持った精神の働き」以外はすべて「幻」「錯覚」というのであれば、「物質」は「幻」「錯覚」であり、「精神」はそうではない、ということになるのかもしれません。
私自身は、そのどちらかというような、そういう「究極の選択」をしようとは思いません。
 (2)では、「精神」、「物質」、前者が後者に「働きかける」ということはどういうことなのか、ということがまず問題となるのではないかと思います。先に述べたとおりです。

>私は迷うことなく、(2) を選びます。 (2)は、私たちが現実に実感できることです。(1)は、私たちの実感と余りにもかけ離れたものです。意識現象は単なる脳内の物理的化学的現象の結果ではありません。私たちが意志に基づいて行動できるように、意識現象から物理的化学的現象への働きかけは、現に存在し、これらは、相互に作用しあうものです。

 これがKina さんの「究極の選択」であるとするなら、とりあえず私はそれを尊重いたしたいと思います。

>これらは、どちらでも成り立つというような対等の選択肢では決してないと思います。また、上記の(1)と(2)を比較した場合、(2)よりも(1)の方が妥当であるとする根拠は何もないと思います。人間の意識活動と対応して、脳の物理的化学的変化が起こっていることを見て、あたかも(1)が証明されたように言う人々もいますが、(1)が絶対的な正しいとの確証となるような、物質についての認識は発展していません。

 (1)よりも(2)の方が妥当であるとする根拠もまた、私はないと思っています。(2)が「絶対的に正しい」との確証となるようなものもないと思います。それだからこそ、Kina さんは「究極の選択」というふうにおっしゃるのでしょう。

>(1)が私たちの実感と余りにもかけ離れたものである限りは、(1)が確実に証明される必要があります。そのような確証がない以上、(2)を前提として物質をとらえるべきではないでしょうか。

 「私たちの実感と余りにもかけ離れたもの」であるとは私も思いますが、ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてになるとは限らない、それだけを根拠にして結論は出せない、と私は考えています。
   (参考) 『生活実践のための要請される、素朴心理学、心の素朴実在論
 この世界というものは、そういう素朴な実感というものからはかなりかけ離れた、いわば奇想天外なものでもあるようです。自分の実感を前提とするというのは、場合によっては、単に先入観にとらわれている、ということになりかねないかもしれません。

◆物質の主体性の組織化のメカニズム

>私たち生命体は、外部との物質代謝を行いつつ、半ば閉じたシステムを形成しております。閉じたシステムにおいては、原因も結果という因果関係も閉じていることになります。

 生命体=原因も結果も内部において因果関係が”半ば”閉じている”システム”、というのは、私にも全く理解できないこともありません。先に私は、このように述べました。”半ば”ではなく閉じているとういうのであれば、私の考えとは違います。半ば閉じているというのは、言い方を変えれば、半ば開いているということでもあるでしょう。

>自然法則に従いつつ主体性を有する物質の原始的な主体性が、因果関係が半ば閉じたシステムである生命体、特にその脳において高度に組織化されることにより人間の意識活動が営まれています。そこでは、物理現象の結果である意識現象が、組織化された主体性により、物理現象に働きかける原因となることは充分にあり得ることだと思います。

 これが総括なのだろうと思いますが、ここでは、「自然法則に従いつつ主体性を有する物質」、「原始的な主体性」、それが「物理現象に働きかける原因となる」ということが、どういうことなのか、もう少し明らかにする必要あるように思います。
 「脳において高度に組織化されることにより人間の意識活動が営まれている」、「物理現象の結果である意識現象」というのは、私もそうなのではないかと思います。「物理現象」の結果が「物理現象」に働きかける原因になるというのは、それ自体はそれほど驚くべき興味深いこととは思いません。それはいわば「物理現象」の中だけで「閉じている」、それ以外の「精神」などというものは必要ない、という主張とも読むことができます。

>現実に、手を挙げようと思えば手が挙がるように、精神が物質の運動の原因になっているという、日常に見ていることを、あたかも自然法則に反する現象であるかのようにとらえることは、そのスタートにおいて誤っているように思われます。
 
 これには私も同感です。私も、これらが「自然法則に反する現象」だとは思っておりません。「精神が物質の運動の原因になっている」のだとしても、それもおそらく、「自然法則に適った現象」なのだろうと、私はとりあえず思っています。問題はそこにではなく、自然法則に反するものとして「精神」を規定し、そういう「精神」が「運動の原因」になる、したがって、そこにおいては自然法則が破られている、超越されている、というような発想はどうなのか、ということだろうと思います。
 自然法則に従う「精神」ならば、私には特に大きな問題ではありません。「精神」はそこで何をするのか、「精神」という概念がそこでなぜ必要とされるのか、「精神」とは何を意味するものなのか、という点はともかくとするならば。

       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 なお、決定論ということで言えば、私の考えの一端は、『決定論と予測可能性』で述べております。
 また、思いつくままに、『自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる』、『ユーザーイリュージョンという発想』、『意識 ―― 世界をシミュレートする脳』 、『自己とは?』、『意識的な自己の支配は幻想という発想 − 意識は潜在意識の産物』、『唯物から「空」に至る道』等も、もしかすると多少は参考になるかもしれません。

 以上の全体を通して、私自身の考え方を述べれば、次の通りです。

@ 最初に、「物質」や「精神」というものをある確かな実体として想定し、
A 次にその間の相互作用があるのかないのか、どうであるのかを考える。

 このような問題のたて方、考え方、解き方、これが妥当なものなのかどうか、私はまず疑問に思います。「物質」や「精神」というものは、いったい何なのか、どういうものなのか、果たしてそれほど確固とした根拠を持つ実体なのかどうか。「物質」と「精神」との間の「相互作用」とか「因果関係」というのは、何なのか。その入口の段階で、私は躊躇してしまいます。ちなみに、疑問は他にもあります。「主体性」とは何なのか、どういうものなのか。「意志」とは、「意識活動」とは? 「原因」とは、「結果」とは? 私に簡単に答えられるものではありません。

 仮にそのような疑問はとりあえず置くこととしても、「物質」と「精神」というアプローチの仕方は、私の感触では、同じところを行ったり来たりの堂々巡りをしているようにもみえます。ひとつの議論として、何か実りのある果実に結実する見込みがあるとも、私には思えません。そのようなアプローチの仕方を、私は採っておりりません。



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