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nbの帰結は「人間機械論」? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/17(月) 10:55:32

・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』
・ nbsakuraiの 『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2 のこと』

 以下のご発言によって、Kina さんが何を問題とされていたのか、何を主張されようとしていたのか、私にもいくらか分かりかけてきました。

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◇ 私が疑問としているのは、
「自分でいろいろなことを考えたり感じたりする意識というものが初めにあって、それが物理的過程となって反映されるのではなく、物理的な過程が大脳のなかで起こるために、意識が生じるのである。」
          ―― 第3章 第4節 2 意識というもの
「自然現象や機械と同じように、人間も物理化学的法則に従っているというこのような考え方は、いまや単なる哲学的な理論ではなく、確かな根拠を持つ科学的な説明である。」
          ―― 第3章 第5節 1 物と心
「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない。言い替えると、人間の構造や機能は物理化学だけで説明でき、主観的な意識の有無とは関係がないのである。したがって、観察できることだけを問題とし、場合によっては、大脳の電気化学的反応をそのまま意識と考えるだけで充分なのである。」
          ―― 第3章 第4節 2 意識というもの
という「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であるとされていることです。

◇「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない」とおっしゃるのは、「主体性を持った精神の働き(自由意志)は、自然法則に従う物質の運動によりもたらされた「幻」であり「錯覚」である」との主張に他ならないと思います。

◇ 私が申上げているのは、「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない」とおっしゃっていることへの反論としての主張であります。究極的に「物理現象」の結果が「物理現象」に働きかける原因になることは、そのとおりであるのですが、主観的な意識の存在により、主体的に「物理現象」に働きかけることになっているのであるということです。

◇ 精神が自然法則に従うものであることは、すでに申上げたとおりです。しかしおっしゃるところの「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない」とは同じではありません。主観的な意識の存在により、主体的に「物理現象」に働きかけることになっているのであるということです。

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 確かに私は上記「」引用のように述べておりますし、ある一定の前提や枠の内では、これがそのまま成立つことを、今でも疑ってはおりません。
 ただし、これがそのまま、現在の私の世界観の最終的な「帰結」というわけではありません。

 まず、上記の私の発言は、『科学的世界観』の中ほどのページにあるもので、「科学的世界観の帰結」という項目はその後の第4章にあります。そのさらに後には、「科学的世界観の限界」とか、「科学の発想の枠を越えて」のような節や章があります。そこをお読みいただければ、上記が私の最終的な帰結ではないということを、ご理解いただけるものと思います。
 その一例を挙げれば、たとえば、次のように私は述べております。(なお、これらは途中経過の一部を抽出したものであって、全趣旨を現したものではありません。)

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第4章 第3節 3 科学と主体性

 科学は、世界のすべてを客観的に考察しなくてはならない。(中略) ところが、こうして考察された人間は原理的に客観現象でしかなく、主体自身の認識や意志や感情などの主体的活動は、科学的方法によってはついにみることができない。

 もちろん、科学が人間の主体性を論理的に否定したというのではない。既に述べたように、主体に科学的方法を適用するというのは矛盾であるから、一人称単数現在の「私」についてはついに科学は何も言うことができない。

 世界についての客観的解釈は、自然を、生物を、そして自分以外の人間を着々と理解してきたまさにその方法でもって、自分自身をも理解しようとする試みなのである。客観性を公準とした科学の偉大な成果を前に、ついには自分自身の主体性をも否定しようとする体系なのである。現代の科学ないし科学的考え方というものが、何か人間離れしたものとして、一部の人間よって拒絶反応が示されることがあるのは、科学がまさに人間の主体性を阻害するという、この点にあるのであろう。
 どこまでも彼らは主張するであろう。科学が何と言おうとも私は生きている。感情をもち、目的をもち、主体的に活動していると。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだと。

第5章 第1節 1 「私」の存在

 科学が、客観性を公準として世界について目覚ましい成果をあげてきたこと、そして科学的な考え方を論理的に突き詰めていくと、究極的には私の主体性が否定されかねないということは、既に述べたように確かである。一方、一人称単数現在の「私」が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。私は、私自身について──私自身の感情や知覚や思考について、大脳のニューロンにおける電気化学的な現象とは全く異なった直接的な知覚をもっている。

 こうして、確実に存在するといえるのはむしろ意識の方である。仮に科学のいう客観世界が存在するとしても、それは知覚する主体の存在に依存する。科学は、実証の名において心的作用に依存しつつ、それに依存して形成された理論体系からこの心的作用を排除しようとする。主体によって知覚される客体のなかで得られた知識と理論を主体に適用し、ついには主体の存在自体を否定しようとするのは、本末転倒の議論ではないだろうか。

ま と め

 われわれは、科学的世界観の当然の帰結として次のように述べてきた。──(中略) 精神現象というものは、人間の動物としての器官である大脳が示す電気化学的な現象である。人間も、ビッグバンによって始まり、自然法則に従う宇宙の一部である。心や自由意志というようなものは存在しない。(中略) 人間の一生には、自然現象以上の意味もないし目的もない。──しかしこれらの帰結は、科学的世界観の当然の帰結ではなく、世界は感覚を通して正しく認識できるような実体を持っているという仮定(あるいは恣意的な思い込み)から導かれたものである。それは世界の科学的説明からではなく、世界の存在についての、科学的に証明することのできないある仮定(客観性の公準)から導かれたものなのである。

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 また、『科学的世界観』には「その後の展開」というものもありまして、『科学的世界観のBlog』で述べてきました。その一部は、先の私のコメントに、発言の箇所を指摘しております。もしも興味をお持ちでしたら、これらをお読みいただいてからコメントしていただければ幸いです。

 それでは、私の現在の最終的な帰結というものはどうかといえば、それはつぎの通りです。

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「空」と「唯識」の核心

 世界のあらゆる事物は相互依存のうちに成り立っており、それ自体で固有の本性・本質をもった実在というようなものは何もない。それらは、現象としてはあるが、実体としてはないという意味で、例外なく空である。
 個々の事物に実在をみてしまう分別知というものが、意識されないところで働いている。自我や他者その他の事物に名前をつけ、あたかも実体であるかのように考えてしまい、そういうイリュージョンにいつの間にか固執してしまっている。
 ことば・概念を実体化して、自己耽溺の物語を創作したり、虚妄の形而上学を仮構して、心や物の実在論、主体と客体の分裂というような陥穽に、知らず知らずのうちに陥っていってしまう。

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 これで理解していただける、充分な説明になっている、とは考えてはおりませんが、「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であると私が必ずしも考えているわけではない、ということだけは説明できたのではないかと思っています。ここでは、それ以外のことを述べようとはしておりません。

 なお、私のこの発言にコメントしていただく場合は、「返信」という形でしていただければ幸いです。それに対して私が発言するときは、そのまた「返信」という形をとらせていただきたい。ここで述べた以外の論点について私が発言するときは、それぞれ区分された別の発言として行い、それぞれについて別々にコメントしていたく形が取れれば、少しは見通しがよくなるのではないかと思っています。



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