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実感はそんなに信頼できる? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/17(月) 17:13:31
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』
・ nbsakuraiの 『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』のこと

 既に『nbの帰結は「人間機械論」?』で、「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であると私が考えているわけではない、ということを述べさせていただきました。ここでは、ヒトの素朴直感、実感というものについての、私の考えを述べてみたいと思います。

 まず、以下のように、Kina さんのこの点についてのご発言を、整理してみました。これは、私の視点で、いわば、あちこち勝手な部分を好きなように切り貼りして加工したものですから、Kina さんのお考えを正しく反映したものとは限りません。不本意な点があれば、ご指摘いただきたいと思います。

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● 主観的な実感

 手を挙げようと思えば手が挙がります。手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。このようなことは、私たちが日常的に見ていることです。
 すなわち、意思(精神、意識活動)は、物質を動かす原因となっています。これが何故問題になるのでしょうか。

 あれこれ綿密に考えた目的意識的行動は明らかに、行動に先立っており、行動(肉体の運動)の原因となっております。

 先にも言いましたように、手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。このようなことは、私たちが日常的に見ていることです。すなわち、意思(精神、意識活動)は、物質を動かす行為に先立っております。

 問題は次の二つのうちのどちらを選ぶかということだと思います。
(1) 主体性を持った精神の働き(自由意志)は、自然法則に従う物質の運動によりもたらされた「幻」であり「錯覚」である。
(2) 脳で営まれる意識活動がそうであるように、精神は物質に働きかけることができる。 私は迷うことなく、(2) を選びます。 (2)は、私たちが現実に実感できることです。(1)は、私たちの実感と余りにもかけ離れたものです。意識現象は単なる脳内の物理的化学的現象の結果ではありません

 これらは、どちらでも成り立つというような対等の選択肢では決してないと思います。また、上記の(1)と(2)を比較した場合、(2)よりも(1)の方が妥当であるとする根拠は何もないと思います。人間の意識活動と対応して、脳の物理的化学的変化が起こっていることを見て、あたかも(1)が証明されたように言う人々もいますが、(1)が絶対的な正しいとの確証となるような、物質についての認識は発展していません。

 現実に、手を挙げようと思えば手が挙がるように、精神が物質の運動の原因になっているという、日常に見ていることを、あたかも自然法則に反する現象であるかのようにとらえることは、そのスタートにおいて誤っているように思われます。

● 主観的な実感の明証性

 すなわち、意思は、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることから、これ以上の証明を要する問題ではないと思います。私たちの科学的知識もそのような実感を超えた明証性を持ったものではありません。

 「私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感している」ことは、何にもまして明証性を有しております。これが確証でないとするならば、この世界にほとんど確かなことはないと思います。ニュートン力学も相対性理論も量子力学も何の根拠にもならないでしょう。

 私は、私自身の意志が私の行動に先立っていることを明らかに実感しております。それはこれ以上証明の要らないものであります。
 前記の実感に対する明証性以上に、証明が必要とされる根拠は何でしょうか。

 むしろ、科学にしてもどのような学問にしても、確証とするのは、我々の実感することのできる明証性であり、それは健全な常識と同じ基盤に根拠を持っております。

 科学にしてもどのような学問にしても、最終的に常識に反するものはないと思います。相対性理論にせよ量子力学にせよ例外ではありません。

● 合理的な説明の必要性

 このような現実に対して科学的な態度とはどのようなものでしょう。

 科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握することでしょう。

 自然法則に従うだけの物質を想定して、そのような物質から、能動的な精神が生じるとは思われないから、能動的精神は錯覚であると結論付けるのが、科学的態度なのでしょうか。
 これに合理的な説明を与えることこそ、科学的世界観と言いえるものではないかと思います。

 (1)が私たちの実感と余りにもかけ離れたものである限りは、(1)が確実に証明される必要があります。そのような確証がない以上、(2)を前提として物質をとらえるべきではないでしょうか。

 「精神」の「物質」への「反作用」ことさら想定することは必要はないとおっしゃるのであれば、まず、なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。

 「物質の主体性」すなわち「未知のプラスα」をことさら想定することが必要ないとおっしゃるのであれば、まず、なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。

 「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。問題は、意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの合理的科学的な説明です。

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 以上の論理を、私なりに、次のように解釈してみました。違っていれば、ご指摘ください。

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@ 自分は、またはヒトは、”これこれ”のことを現実に目撃し、明らかに実感している。
A これに反する意見は、実感と余りにもかけ離れている。
B この実感の内容には明証性があり、疑いえない。何かを確証するのは、この実感することのできる明証性である。これで確証であり、これ以上の証明は要らない。
C もしもこの実感の内容に反することを主張するとするなら、主張する側がそれを合理的に説明し証明しなければならない。それがないうちはこの実感の内容を正しいとすべきである。


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