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「物質」と「精神」? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/23(日) 07:10:40

(続き)
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 Kina さんの、以上のようなお考えを、うまくまとめることは私にはできませんが、以下、これに対する私見を述べさせていただきたいと思います。
 なお、前に”『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見”等で述べたことを、あらためてくり返すようなことは、できるかぎりしないようにしたいと思っています。

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● 「物質と精神」というモデルのもつ意味

 「物質」や「精神」という言葉について、私は辞書的な定義や、字義の説明を求めているわけではありません。たとえば、ネッシーや一角獣、ドラゴン、UFO、竜宮城などにも、辞書的な定義や字義というものはあるでしょう。だからといって、それらの言葉を使って、たとえばの話ですが、竜宮城からUFOに乗って一角獣がやってきたというような主張をしてみても、直ちに何らか意味があるとは、考えられません。

 「物質」や「精神」という言葉の通常の常識的な意味を、私も全く知らないというわけではありません。しかし、それらの言葉の通常意味するところは、きわめて曖昧で多義的なものであり、突きつめていくと私には何だかよく分かりません。少なくとも、それをそのまま使って、何らかの確固とした科学的あるいは哲学的な主張が組み立てられるほど、その意味内容はキチンとした明確なものではないと思います。

 「物質」と「精神」は相互作用する、「精神」が「物質」に「働きかける」、「物質を動かす原因」になる、というなら、「物質を動かす原因」になる「精神」とはどういうもので、「精神」が「働きかける」「物質」とはどういうものなのか。その間の違いの意味や相互の関係、そのあり方、働きかけ方、働きかけるメカニズム等々が伝わるような、そういう説明がなされる必要があると思います。
 それらについてのご説明がなければ、この「物質と精神」という説明モデルのもつ価値や意味は、評価のしようがありません。

 「物質の主体性」というお話も、同様です。
 もしも、
>「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。
というのであれば、それは、そこには「何かか分からない未知のものがある」、ということのみをおっしゃっている、というふうにも受け取ることができます。ここにおいて、「物質には主体性がある」という主張は、アッサリと取り下げられたのでしょうか。「未知のものがある」というのは、むしろよく分からないという、不可知の表明とも受け取れます。何かを具体的に説明する、主張する、というものではないでしょう。そこにおいて、ことさらに「物質の主体性」というような言葉を使う必要が、どこにあるのか私には理解できません。
 Kina さんのおっしゃる、「精神」や「主体性」の発生メカニズムの説明も、以上と同様です。

 「人間の身体を意思により動かすことができる」「目的意識的に行動する」ということが、イコール、「精神」が「物質」に「働きかける」というモデルが成立つ、ということを意味するとは限らない、と私は考えます。
 「精神」、「物質」、「働きかける」などという言葉を使わなくとも、同様な趣旨は表現でき、Kina さんご自身も、現に「意識活動」、「意思」「主体性」、「能動性」というような言葉を使って語っておられます。
 明証性を持って感じておられる「実感」を表現するというのなら、それで充分に表現できるものと思われます。ことさら、「物質と精神」というモデルをあらためて立てなければならないとは思えません。逆に、どうしてもそういうモデルを立てられるというなら、「物質」「精神」「働きかける」ということの意味内容を、それ相応に明確に説明される必要があると私は考えます。

 なお、「現在の物質に関する知識は、物質を知り尽くして、最早何も残された未知のものはない」などとは、私は考えておりません。

● 「物質と精神」という発想の妥当性

 前に述べたように、「物質」と「精神」という、このような問題のたて方、考え方、解き方、これが妥当なものなのかどうか、私はまず疑問に思います。「物質」や「精神」というものは、果たしてそれほど確固とした根拠を持つ実体なのかどうか。

 おっしゃるように、
>心身二元論の問題は、デカルトの以前の時代からの難問です。これに対する一定の回答を与えることは、哲学の任務として省くことはできないと思います。
とは、いちおう私も思います。しかしながら、「物質と精神」という概念を使ってこれに回答を与えることに、成功の見込みがあるとは私には思えません。

 これも私には、説明が直ちに簡単にできるようなものではありませんが、つぎの記事を引用させていただきます。

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 物理主義に対するライバルとは、いわゆる(物心)二元論、(物心を含む)多元論、あるいは唯心論といった諸立場になるだろう。この中で、一つの研究プログラムとしていくらかでも真剣に追求されたことがあるものは二元論に限られると言ってよいだろう。デカルトが始めたこの有名な(あるいは悪名高い?)企ては、しかし、開始されてほどなくしてさまざまな理論的困難を露呈し、決定的に破綻したとは言えないにせよ挫折したままになっている、と評価すべきだと私は考えている(*12)。

(12) こう考える理由をここで詳しく述べることはできないが、しかし本章のテーマである心的因果一つを取り上げても二元論の弱点は容易に確認できる。この立場から心的因果の存在を説明しようとすれば、純粋に非物理的な心的事象、いかなる物理的エネルギーももたない事象がいくらかのエネルギーをもつ事象(身体的行動)を引き起こしうることを認めなければなくなる。つまり無から有が生じることを認めざるをえなくなるだろう。これは不可解である。この不可解さを避けようとすれば、二元論は心的因果に対するわれわれの強固な日常的信念を強引に否定せざるをえないことになる(いわゆる心身並行論、予定調和説、エピフェノメナリズムなどといった諸立場)。二元論のこのような理論的困難は、デカルトと同時代の哲学者たちによるデカルト批判においてすでに詳しくい明らかになっている。
                           ――  『物理主義』 

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、「物質」と「精神」というアプローチの仕方は、私の感触では、いつまでも同じところを行ったり来たりの堂々巡りをしているようにみえます。ひとつの議論として、何か実りのある果実に結実する見込みがあるとは、私には思えません。

 以下は、いわば蛇足です。

 Kina さんが、
>手を挙げようと思えば手が挙がります。手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。
という主観的な実感を信頼し主張されるというのなら、そのことを「実感」として主張されればそれでよいのではないか、と私は思います。

 nbが同様なことを主張するなら、たとえば、次のように表現したいと思います。
 私が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。私は、私自身について、私自身の感情や知覚や思考について、直接的な内的知覚をもっている。私は感情をもち、目的をもち、主体的に活動している。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだ、と。
 そこでは、「物質」と「精神」というような概念は不要です。いささか過激に表現するならば、そもそもそれは問題のたて方が間違っている。実質的には意味のない、空疎な問いである。このような時代ががった、カビの生えた発想はとうに乗り越えられている、というのが私の考えです。

 Kina さんは、私の推測にすぎませんが、それだけではどうにも済まされず、おそらくそれを、明確な言葉で科学的あるいは哲学的に理論化しようとされているのだと思います。そこが、Kina さんの哲学者たるゆえんなのでしょう。

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