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Re:nbの帰結は「人間機械論」? Kina (ip68-100-140-43.dc.dc.cox.net) 2006/07/23(日) 21:09:22
私は桜井さんが「人間機械論者」であるとはもうしておりません。あえて表現させていただくならば、「科学のとる『客観性の公準』は『人間機械論』に帰結せざるを得ないものとし、世界観としてこれを放棄するとともに、唯物論、唯心論、宗教を「等価」とし、結果的には仏教思想に傾いていらっしゃる」と理解しております。

●第4章 第3節 3 科学と主体性

【科学は、世界のすべてを客観的に考察しなくてはならない。(中略) ところが、こうして考察された人間は原理的に客観現象でしかなく、主体自身の認識や意志や感情などの主体的活動は、科学的方法によってはついにみることができない。 もちろん、科学が人間の主体性を論理的に否定したというのではない。既に述べたように、主体に科学的方法を適用するというのは矛盾であるから、一人称単数現在の「私」についてはついに科学は何も言うことができない。】
科学は、一人称単数現在の「私」について何も言うことができないとしても、その「私」の主体性や自由意志の根拠に関して科学的に解明していくことはできるのだと思います。
【世界についての客観的解釈は、自然を、生物を、そして自分以外の人間を着々と理解してきたまさにその方法でもって、自分自身をも理解しようとする試みなのである。客観性を公準とした科学の偉大な成果を前に、ついには自分自身の主体性をも否定しようとする体系なのである。現代の科学ないし科学的考え方というものが、何か人間離れしたものとして、一部の人間よって拒絶反応が示されることがあるのは、科学がまさに人間の主体性を阻害するという、この点にあるのであろう。どこまでも彼らは主張するであろう。科学が何と言おうとも私は生きている。感情をもち、目的をもち、主体的に活動していると。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだと。】
「私は生きている。感情をもち、目的をもち、主体的に活動していると。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだ」という実感に、科学が敵対するものであるとの前提が、疑問です。これは、最初に与えられている前提であり、科学の使命はこれを否定することではなく、これに合理的な根拠と説明を与えることであるはずです。「人間機械論」が「科学」そのものではないはずです。

●第5章 第1節 1 「私」の存在
【科学が、客観性を公準として世界について目覚ましい成果をあげてきたこと、そして科学的な考え方を論理的に突き詰めていくと、究極的には私の主体性が否定されかねないということは、既に述べたように確かである。】 科学が主体性に敵対するものであるとされる「科学」のとらえ方に問題があるように思われます。
【一方、一人称単数現在の「私」が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。】 そのとおりであり、これは最初に与えられる前提であると申上げております。それを科学によって一生懸命否定されようとしているのは、桜井さんの方であり、私ではありません。
【私は、私自身について──私自身の感情や知覚や思考について、大脳のニューロンにおける電気化学的な現象とは全く異なった直接的な知覚をもっている。】 ここで前記のような前提を説明するのに、科学を超える「電気化学的な現象とは全く異なった直接的な知覚」を持ち出してこられるのは、すでに「科学的」であることを放棄されているのではないでしょうか。私たちの意識現象は「大脳のニューロンにおける電気化学的な現象」から生み出されるとともに、物質の本性である主体性が組織化されたものとしての思考や決断を経て、主体的に電気化学的に大脳のニューロン及び肉体的に働きかけていくものではないでしょうか。それは「電気化学的な現象とは全く異なった」ものではないと思います。

【こうして、確実に存在するといえるのはむしろ意識の方である。仮に科学のいう客観世界が存在するとしても、それは知覚する主体の存在に依存する。科学は、実証の名において心的作用に依存しつつ、それに依存して形成された理論体系からこの心的作用を排除しようとする。主体によって知覚される客体のなかで得られた知識と理論を主体に適用し、ついには主体の存在自体を否定しようとするのは、本末転倒の議論ではないだろうか。】 「確実に存在するといえるのはむしろ意識の方である」私はこれが前提であり、これに合理的な根拠と説明を与えるのが科学の使命であると考えております。
科学は、複雑な現実を理解するために、単純化したモデルや仮説を想定することはあります。しかし、そのような制約を意識することが真に科学的なのであり、「実証の名において心的作用に依存しつつ、それに依存して形成された理論体系からこの心的作用を排除しようとする」のは非科学的な態度でしょう。

●ま と め
【精神現象というものは、人間の動物としての器官である大脳が示す電気化学的な現象である。人間も、ビッグバンによって始まり、自然法則に従う宇宙の一部である。心や自由意志というようなものは存在しない。(中略) 人間の一生には、自然現象以上の意味もないし目的もない。──しかしこれらの帰結は、科学的世界観の当然の帰結ではなく、世界は感覚を通して正しく認識できるような実体を持っているという仮定(あるいは恣意的な思い込み)から導かれたものである。それは世界の科学的説明からではなく、世界の存在についての、科学的に証明することのできないある仮定(客観性の公準)から導かれたものなのである。】 私には、「世界は感覚を通して正しく認識できるような実体を持っているという仮定」からではなく、科学を機械論に矮小化することから導かれるのではないかと思います。科学は現実をありのままに見ることから始まります。「一人称単数現在の『私』が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ『感じている』こともまぎれもない事実である。」この現実を科学的に解明することが科学的な態度であり、桜井さんのおっしゃる「客観性の公準」とおっしゃるのは、単なる機械論であり、科学の限られた部分についてしか当てはまらないものだと思います。

●「空」と「唯識」の核心
【世界のあらゆる事物は相互依存のうちに成り立っており、それ自体で固有の本性・本質をもった実在というようなものは何もない。それらは、現象としてはあるが、実体としてはないという意味で、例外なく空である。個々の事物に実在をみてしまう分別知というものが、意識されないところで働いている。自我や他者その他の事物に名前をつけ、あたかも実体であるかのように考えてしまい、そういうイリュージョンにいつの間にか固執してしまっている。ことば・概念を実体化して、自己耽溺の物語を創作したり、虚妄の形而上学を仮構して、心や物の実在論、主体と客体の分裂というような陥穽に、知らず知らずのうちに陥っていってしまう。】
私も仏教思想に関しての若干の知識を有しております。しかし、科学的に世界を捉えることと結びつけることにより、仏教思想の真価が現れるのではないかと思っております。すべてのものが諸行無常であり、すべてが因縁生起していることは真理でしょう。永遠不滅の実体はないでしょうが、現実は変化しつつも存在しております。宇宙は、究極的にはエネルギーに一元的に還元でき、これが空の背後にある実体なのかもしれません。我々の認識も限られたものであることは事実でしょう。しかし、それは、世界の合理的理解を不可能にするものではないと思います。


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