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Re:「物質」と「精神」? Kina (ip68-100-140-43.dc.dc.cox.net) 2006/07/23(日) 21:16:05
● 「物質と精神」というモデルのもつ意味

私が辞書の意味を引用したのは、それぞれが勝手な用語を使っていては、議論がなりたたないことからです。したがって、私としましては、それぞれの用語に特別な意味を込める意図はないし、一般的な意味で使いたいことを申しているわけです。

◆【「物質を動かす原因」になる「精神」とはどういうもので、「精神」が「働きかける」「物質」とはどういうものなのか。】これは、私が「手を挙げようと思えば、手を挙げることができるし、手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。」という普通のことを意味しております。
◆【その間の違いの意味や相互の関係、そのあり方、働きかけ方、働きかけるメカニズム等々が伝わるような、そういう説明がなされる必要があると思います。それらについてのご説明がなければ、この「物質と精神」という説明モデルのもつ価値や意味は、評価のしようがありません。】 このようなメカニズムはまだ人類にとっては未知のところだと思います。しかしながら、私たちが実感している自由意志や主体性が幻でも錯覚でもなく、物質の本性から理解しえるものであるとの立場をとることが、科学的世界観を徹底させるものだと思っております。

◆【「物質の主体性」というお話も、同様です。
 もしも、「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。
というのであれば、それは、そこには「何かか分からない未知のものがある」、ということのみをおっしゃっている、というふうにも受け取ることができます。ここにおいて、「物質には主体性がある」という主張は、アッサリと取り下げられたのでしょうか。「未知のものがある」というのは、むしろよく分からないという、不可知の表明とも受け取れます。何かを具体的に説明する、主張する、というものではないでしょう。そこにおいて、ことさらに「物質の主体性」というような言葉を使う必要が、どこにあるのか私には理解できません。】 「未知」と「不可知」とはまったく異なります。「科学は進歩し続ける」ということが正しいとするならば、それは「常に『未知』がある」ということです。未知から既知にするのが、認識の発展であり、「不可知」ではありません。「不可知」は、永遠に不可知のままであり、そのようなものを私は想定しておりません。桜井さんの物質観には、物質は自然法則に従うだけの受動的な存在とされているように私には思えます。私は物質が「未知のプラスα」を持ち、その「未知のプラスα」が人間の精神の主体性につながるものであって、「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではないと申上げているのです。

【「人間の身体を意思により動かすことができる」「目的意識的に行動する」ということが、イコール、「精神」が「物質」に「働きかける」というモデルが成立つ、ということを意味するとは限らない、と私は考えます。
 「精神」、「物質」、「働きかける」などという言葉を使わなくとも、同様な趣旨は表現でき、Kina さんご自身も、現に「意識活動」、「意思」「主体性」、「能動性」というような言葉を使って語っておられます。
 明証性を持って感じておられる「実感」を表現するというのなら、それで充分に表現できるものと思われます。ことさら、「物質と精神」というモデルをあらためて立てなければならないとは思えません。逆に、どうしてもそういうモデルを立てられるというなら、「物質」「精神」「働きかける」ということの意味内容を、それ相応に明確に説明される必要があると私は考えます。】 実感を表現するだけであれば、科学的世界観ということはできません。その実感に関する科学的説明を試みるのが科学的世界観だと思います。「物質と精神」というモデルをあらためて立てたわけではなく、科学的世界観によって説明すべき課題ではないでしょうか。

【「現在の物質に関する知識は、物質を知り尽くして、最早何も残された未知のものはない」などとは、私は考えておりません。】 そうであるならば、物質そのものに主体性なり自由意志なりを構成しえる本性を備えているとの物質観が誤りであるとか、自由意志が「錯覚」であるなどとは言えないのではないでしょうか。

● 「物質と精神」という発想の妥当性

【「物質」と「精神」というアプローチの仕方は、私の感触では、いつまでも同じところを行ったり来たりの堂々巡りをしているようにみえます。ひとつの議論として、何か実りのある果実に結実する見込みがあるとは、私には思えません。】
「物質」と「精神」は、問題解決のためのアプローチではなく、「問題」そのものです。
二元論はそのスタートにおいて誤っていることはおっしゃるとおりだと思います。それを克服するのに、主観的側面からのアプローチと、客観的側面からのアプローチがあるのでしょう。
【nbが同様なことを主張するなら、たとえば、次のように表現したいと思います。
 私が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。私は、私自身について、私自身の感情や知覚や思考について、直接的な内的知覚をもっている。私は感情をもち、目的をもち、主体的に活動している。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだ、と。】 ここでおっしゃっていることは、まさにすべての人にとっての現実です。科学的世界観とそれ以外の世界観を分けるものは、この現実に関して科学的な説明を与えるかどうかだと思います。私の「物質の主体性」なり「未知のプラスα」というのは、大雑把な仮説ではありますが、科学的認識の方向性に沿ったものだと思います。
「科学的世界観の位置づけ」でおっしゃるように、唯物論、唯心論、宗教を含む「世界の科学的説明を採用したすべての世界観の総称」ではないと思います。
【そこでは、「物質」と「精神」というような概念は不要です。いささか過激に表現するならば、そもそもそれは問題のたて方が間違っている。実質的には意味のない、空疎な問いである。このような時代ががった、カビの生えた発想はとうに乗り越えられている、というのが私の考えです。】先に述べられたことは、我々の実感を単に記述されているだけであり、それに対する科学的説明を試みてもいらっしゃらないのです。そこでは科学的な説明は、「人間機械論」に至る「客観的な公準」としてすでに放棄されているのであり、何も乗り越えてはおられないのです。


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