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Re:実感はそんなに信頼できる? Kina (ip68-100-140-43.dc.dc.cox.net) 2006/07/23(日) 23:18:33
●【1】 実感の主観性
【おっしゃるように、科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握すること、―― だとするならば、 上記の「実感」というのは、まさしく主観的な実感であり、独断とまでは言いませんが、「主観による」ものであると私は考えます。少なくとも私に基準では、客観的なものとは言えません。】 「実感が主観であり、客観的なものではない」とおっしゃるのはそのとおりです。

●【2】 主観的な実感の信頼性

【ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてになるとは限らない、それだけを根拠にして結論は出せない、と私は考えています。 この世界というものは、そういう素朴な実感というものからはかなりかけ離れた、いわば奇想天外なものでもあるようです。 そういう生活日常の直感から発想するならば、例えば、物が下に落ちるのは自明の理である。物には本来の場所があり、それは下だ、なんて考えてもいいだろう。相対性理論は間違っている。なぜなら素朴直感に反するから。弟が兄より年寄りになるなんてことが、あるはずがないじゃないか。量子論は受け容れられない。なぜなら、粒子が波だなんて素朴直感に矛盾している。粒子と波がゼンゼン違うものだなんてことは、あたりまえの常識じゃないか。】 「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてにならない」ことは否定しません。ただし、「必ずしも」です。人間の感覚や知覚が、錯覚を起こすことはあり得ます。科学においては、その感覚や知覚を厳格に管理することにより、検証しているのであり、客観的真理とされる科学的知識の検証も「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識」に基礎を置いております。相対性理論からは、我々の日常において「弟が兄より年寄りになる」ことは導かれません。その意味では素朴直感に反してはいません。ニュートン力学だって、力が働かない状態では、物体は等速直線運動するとしていますが、たいていのものは力を加え続けないとすぐにとまってしまい、素朴な直感に反するものです。しかし、ニュートン力学を理解し、摩擦や流体抵抗を理解すれば、素朴な直感に矛盾しないことが分かるわけです。したがって、科学的認識は「究極的には」素朴な直感に矛盾しないものです。素粒子を粒子や波動としてとらえるのは、人工的なモデルでしかありません。素粒子が先にあるのであり、人間が粒子や波動として表現しているに過ぎません。ミクロの世界においてマクロな世界と異なった様相があっても、素朴な直感に矛盾してはおりません。

●【3】 この実感の説明
【なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明について】
【私たちの感覚器官は、世界が「本当は」どうであるかについての「真実の」像を与えるために形づけられていると考える人がいるかもしれない。しかし、それが、私たちが生き残るのを助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定するほうが安全だろう。ある意味で、感覚器官がなすべきは、脳が世界についての有効なモデルを構築するのを助けることであり、このモデルのなかで私たちは動きまわるのである。それは、現実の世界についての一種の「仮想現実」シミュレーションなのである。―― 『生き残るために有効なバーチャル・リアリティ』】 「感覚器官が、私たち生存を助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定する」ことと、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。むしろ物質が単純に自然法則に従うだけのものであれば、人間の意識や主体性など存在する必要がないのであり、それがあるかのような幻想がどのようなメカニズムで生まれるのかが問題なのです。

【生物の進化論が正しいなら、その限りですべての生物は、何はともあれ生きようとしなければなりません。うまく生きられなければなりません。そうでなければ、生物進化の過程を生き残ることができず、それをうまくやってきたものが現在まで生き延びてきたわけです。そして人は、そういう進化の過程を生き延びてきた生物なわけです。 そうであるなら、「イノチにこだわる」っていうのは、修行をして悟るまでもなく、むしろ生物としての当然の性質であるわけです。生物進化は、種に働くのではなく、生物個体に働くというのですから、「ジブンにこだわる」っていうのも、いわば当然とも言えます。    ―― 『唯物から「空」に至る道』】
上述とまったく同じであり、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。

【私たちの脳は本質的に、モデルをつくる機械です。私たちは、それにもとづいて行動するための、有用な、世界のバーチャル・リアリティ・シミュレーションを構築する必要があります。(中略) さらに、この内部のシミュレーションを完成させるためには、他者の心のモデルだけではなく、それ自身のモデル、すなわち安定的な属性、人格特性、能力の限界(何ができて何ができないか)も、そこに含めなくてはなりません。 ―― 『自己とは?』
 意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自身のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう。
―― 『意識 ―― 世界をシミュレートする脳』 】 上述とまったく同じです。

【自由な意思はわれわれにはないと認知科学が教えるのに対し、われわれは、そのような信念を断念できない。われわれはそれを抱き続けるように「ほとんど強制されている」のである。    ―― 『自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる』】上述とまったく同じです。また、「そのような信念を断念できず、われわれはそれを抱き続けるように『ほとんど強制されている』」からではなく、そのような現実があるから信念を抱いているのです。


【4】 この実感が正しくないという根拠
【リベットは、私たちが動こうと決めたときに脳の中で何が起きるのかを探った。意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か。最近、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジの生理学者パトリック・ハガードが、リベットのこの実験を再現した。実験はとても簡単だった。パトリックの実験動物になった私が言うのだからまちがいない。私の頭蓋に取りつけられた電極が、脳の運動皮質の電気活動を監視する。運動皮質は運動の生成に関与する皮質の一部である。私がなすべきことは、いつでも自分の好きなときにボタンを押して、それを押したいと思った時間を正確に告げることだった。
 リベットは、動きたいという意識的欲求が先に起こり、それから脳の運動野が活動をはじめると思っていたが、まったく逆だということを発見した。動こうという決断は、運動野が行動の準備を始めてから約一秒後にやってくる。あなたの脳は、潜在意識のなかで既に動く決断をしており、「あなた」はその動くプロセスが作動したとたん、その存在に気づくにすぎないのである。―― 『意識的な自己の支配は幻想という発想 − 意識は潜在意識の産物』】
リベットの実験のことは私も承知しておりますが、ここで問題とされているのは、「意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か」です。実験の厳密性に関しての疑問はともかくとして、仮に無意識的な運動の実行が、意識的な決定に先立つようなことがあっても不思議なことではありません。例えばバッターが高速のボールを打つときに無意識的な運動の実行が先立って、意識的な決定は、微調整程度の役割しか果たしていなくても、本質的な問題ではないと思います。人間の精神はもちろん「意識」に焦点が与えられた言葉ではありますが、「意識」と「無意識」の境界ははっきりしたものではありません。無意識が「自然の法則性」の管轄内、意識が「自然の法則性」の管轄外というようなものではありません。物質の主体性の組織化レベルは、素粒子段階から、人間の意識に至るまで、無限の階層をなしております。むしろ上記の実験にしても、人間の意識の外においても、主体的な自律性が現れているのであり、物質は「自然の法則性」に受動的に支配されているだけのものではないことを示すものだと思います。


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