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帰結ではない『人間機械論』 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/24(月) 03:58:01


>私は桜井さんが「人間機械論者」であるとはもうしておりません。

 ここで私は、Kina さんの
>私が疑問としているのは、・・・という「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であるとされていることです。
というご発言に対し、「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であると私が必ずしも考えているわけではない、ということをご説明したつもりですが、この点は、ご了解いただけたのかどうか。

 以下は、いわば蛇足です。

>あえて表現させていただくならば、「科学のとる『客観性の公準』は『人間機械論』に帰結せざるを得ないものとし、世界観としてこれを放棄するとともに、唯物論、唯心論、宗教を「等価」とし、結果的には仏教思想に傾いていらっしゃる」と理解しております。

 私は、”科学のとる『客観性の公準』は『人間機械論』に帰結せざるを得ないもの”とはしておりません。もともと『人間機械論』というのはKina さんがつけたレッテルですから、そういうものを”放棄”したこともありません。また、”唯物論、唯心論、宗教を「等価」とし”たことはありません。そのように誤解されても仕方がないのかもしれませんが。
 なお、私の考えている「唯識・空」が、はたして正当な”仏教思想”と言えるのかどうかには、いささか疑問を持っております。

>科学は、一人称単数現在の「私」について何も言うことができないとしても、その「私」の主体性や自由意志の根拠に関して科学的に解明していくことはできるのだと思います。

 そうであるなら、今後ぜひとも”科学的に解明”していただいて、結果を教えていただくよう期待したいと思います。

>「私は生きている。感情をもち、目的をもち、主体的に活動していると。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだ」という実感に、科学が敵対するものであるとの前提が、疑問です。これは、最初に与えられている前提であり、科学の使命はこれを否定することではなく、これに合理的な根拠と説明を与えることであるはずです。「人間機械論」が「科学」そのものではないはずです。

 私は、そういう”実感に、科学が敵対するものであるとの前提”は、してはおりません。また、Kina さんにとって、そういう実感が”最初に与えられている前提”であること、”科学の使命はこれを否定することではなく、これに合理的な根拠と説明を与えることであるはず”と考えておられることは理解しました。
 なお、”「人間機械論」が「科学」そのものではないはず”については、私も同意見です。

>科学が主体性に敵対するものであるとされる「科学」のとらえ方に問題があるように思われます。

 私は、”科学が主体性に敵対するものである”とは考えておりません。

>そのとおりであり、これは最初に与えられる前提であると申上げております。

 これが、Kina さんの”最初に与えられる前提”であることは理解いたしました。

>それを科学によって一生懸命否定されようとしているのは、桜井さんの方であり、私ではありません。

 私は、”それを科学によって一生懸命否定”しようとはしておりません。

>ここで前記のような前提を説明するのに、科学を超える「電気化学的な現象とは全く異なった直接的な知覚」を持ち出してこられるのは、すでに「科学的」であることを放棄されているのではないでしょうか。

 私は、”「科学的」であることを放棄”しているとは考えておりません。

>私たちの意識現象は「大脳のニューロンにおける電気化学的な現象」から生み出されるとともに、物質の本性である主体性が組織化されたものとしての思考や決断を経て、主体的に電気化学的に大脳のニューロン及び肉体的に働きかけていくものではないでしょうか。それは「電気化学的な現象とは全く異なった」ものではないと思います。

 ではそれは、Kina さんのお考えでは、一体何なのでしょうか。

>「確実に存在するといえるのはむしろ意識の方である」私はこれが前提であり、これに合理的な根拠と説明を与えるのが科学の使命であると考えております。

 Kina さんのお考えは理解しました。

>科学は、複雑な現実を理解するために、単純化したモデルや仮説を想定することはあります。しかし、そのような制約を意識することが真に科学的なのであり、「実証の名において心的作用に依存しつつ、それに依存して形成された理論体系からこの心的作用を排除しようとする」のは非科学的な態度でしょう。

 私も、科学的な態度は思いません。しいて言うなら、哲学的な態度だと思います。

>私には、「世界は感覚を通して正しく認識できるような実体を持っているという仮定」からではなく、科学を機械論に矮小化することから導かれるのではないかと思います。

 私は、そうは思いません。なお私は、自分が”科学を機械論に矮小化”したとも思っておりません。

>科学は現実をありのままに見ることから始まります。「一人称単数現在の『私』が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ『感じている』こともまぎれもない事実である。」この現実を科学的に解明することが科学的な態度であり、

 私はそうとも思いませんが、もしも”この現実を科学的に解明”することができるならば、実に喜ばしいことだと思います。

>桜井さんのおっしゃる「客観性の公準」とおっしゃるのは、単なる機械論であり、科学の限られた部分についてしか当てはまらないものだと思います。

 私はそうは思いません。

>私も仏教思想に関しての若干の知識を有しております。しかし、科学的に世界を捉えることと結びつけることにより、仏教思想の真価が現れるのではないかと思っております。

 Kina さんのこのご発想、認識とよく似たものを、私も共有しているのではないかと思います。

>すべてのものが諸行無常であり、すべてが因縁生起していることは真理でしょう。永遠不滅の実体はないでしょうが、現実は変化しつつも存在しております。宇宙は、究極的にはエネルギーに一元的に還元でき、これが空の背後にある実体なのかもしれません。

 そうかもしれません。そうでないかもしれません。

>我々の認識も限られたものであることは事実でしょう。しかし、それは、世界の合理的理解を不可能にするものではないと思います。

 Kina さんにとっての”世界の合理的理解”というものが、どういうものかわかりませんので、私にはなんとも答えられません。
 なお、私は私なりに、”世界の合理的理解”をしようと努めているつもりではあります。



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