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『実感』の非明証性 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/24(月) 04:00:07


 私はここで、Kina さんのお考えはこうだと私が考えた、
>この実感の内容には明証性があり、疑いえない。何かを確証するのは、この実感することのできる明証性である。これで確証であり、これ以上の証明は要らない。
に対し、
・ ヒトの素朴直感は、何ら証明になるものではない。
ということを述べたつもりです。

>「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてにならない」ことは否定しません。

 ”証明になる”という”主観的な実感の明証性”のご意見は、そのまま維持されているのかどうか。

 以下は、いわば蛇足です。

>ただし、「必ずしも」です。人間の感覚や知覚が、錯覚を起こすことはあり得ます。科学においては、その感覚や知覚を厳格に管理することにより、検証しているのであり、客観的真理とされる科学的知識の検証も「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識」に基礎を置いております。相対性理論からは、我々の日常において「弟が兄より年寄りになる」ことは導かれません。その意味では素朴直感に反してはいません。ニュートン力学だって、力が働かない状態では、物体は等速直線運動するとしていますが、たいていのものは力を加え続けないとすぐにとまってしまい、素朴な直感に反するものです。しかし、ニュートン力学を理解し、摩擦や流体抵抗を理解すれば、素朴な直感に矛盾しないことが分かるわけです。したがって、科学的認識は「究極的には」素朴な直感に矛盾しないものです。素粒子を粒子や波動としてとらえるのは、人工的なモデルでしかありません。素粒子が先にあるのであり、人間が粒子や波動として表現しているに過ぎません。ミクロの世界においてマクロな世界と異なった様相があっても、素朴な直感に矛盾してはおりません。

・ 確立された科学的事実が、素朴直感に反することは現にある。
というのが、私の考えです。

>「実感が主観であり、客観的なものではない」とおっしゃるのはそのとおりです。

 これと、
>科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握すること
という先の発言は、どのように整合するのでしょうか。

>「感覚器官が、私たち生存を助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定する」ことと、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。むしろ物質が単純に自然法則に従うだけのものであれば、人間の意識や主体性など存在する必要がないのであり、それがあるかのような幻想がどのようなメカニズムで生まれるのかが問題なのです。
>上述とまったく同じであり、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。
>上述とまったく同じです。
>上述とまったく同じです。また、「そのような信念を断念できず、われわれはそれを抱き続けるように『ほとんど強制されている』」からではなく、そのような現実があるから信念を抱いているのです。

 私は、ここで、
>なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの説明です。
というご発言に対し、実感の”合理的な説明”をしようと努めたつもりです。その要点は、次の通りです。

・ ヒトはそのような実感をもつようにできている。
 なお、少し付言すれば、そのような実感があることは、”そのような現実がある”か否かとはここでは無関係です。あるかもしれないし、ないかもしれません。

 確かに、”因果関係”や”メカニズム”の説明が必要とされるというのなら、充分ではないかもしれません。しかし一方で、Kina さんの”この実感の内容を正しいとすべきである”というご主張についても、充分な説明がなされているわけではないと私は考えております。
 Kina さんの主張だと私が考えた、
>もしもこの実感の内容に反することを主張するとするなら、主張する側がそれを合理的に説明し証明しなければならない。それがないうちはこの実感の内容を正しいとすべきである。
は、もはや成立たないと私は考えています。

>リベットの実験のことは私も承知しておりますが、ここで問題とされているのは、「意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か」です。実験の厳密性に関しての疑問はともかくとして、仮に無意識的な運動の実行が、意識的な決定に先立つようなことがあっても不思議なことではありません。例えばバッターが高速のボールを打つときに無意識的な運動の実行が先立って、意識的な決定は、微調整程度の役割しか果たしていなくても、本質的な問題ではないと思います。人間の精神はもちろん「意識」に焦点が与えられた言葉ではありますが、「意識」と「無意識」の境界ははっきりしたものではありません。無意識が「自然の法則性」の管轄内、意識が「自然の法則性」の管轄外というようなものではありません。物質の主体性の組織化レベルは、素粒子段階から、人間の意識に至るまで、無限の階層をなしております。むしろ上記の実験にしても、人間の意識の外においても、主体的な自律性が現れているのであり、物質は「自然の法則性」に受動的に支配されているだけのものではないことを示すものだと思います。

 私はここで、
・ この場合の素朴直感が間違っているという根拠も、全くないわけではない。
ということを述べさせていただきました。

 なお、Kina さんは、
>問題は、意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの合理的科学的な説明です。
と、先におっしゃった。
 それに対し、”意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っている”と決まったものではない、と私は申し上げた。

>仮に無意識的な運動の実行が、意識的な決定に先立つようなことがあっても不思議なことではありません。

 これは、”意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っている”という主張を取り下げ、私の意見に同意していただいた、ということでよろしいのでしょうか。
 そしてその上で、

>意識的な決定は、微調整程度の役割しか果たしていなくても、本質的な問題ではない

 というふうに主張を変えられた、ということなのでしょうか。



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