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世界理解のモデルではない『物質と精神』 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/24(月) 21:44:02


○ まず初めに、お詫びと訂正です。

>「未知」と「不可知」とはまったく異なります。「科学は進歩し続ける」ということが正しいとするならば、それは「常に『未知』がある」ということです。未知から既知にするのが、認識の発展であり、「不可知」ではありません。「不可知」は、永遠に不可知のままであり、そのようなものを私は想定しておりません。

 ご指摘の通りです。私が勝手に「未知」を「不可知」と置き換えてしまったこと、まことに申し訳ありません。次のように訂正させていただきます。

 もしも、
>「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。
 というのであれば、それは、そこには「何か分からない未知のものがある」、ということのみをおっしゃっている、というふうにも受け取ることができます。「未知のものがある」というのは、いわばよく分からないということで、何かを具体的に説明する、主張する、というものではないでしょう。ここにおいて、「物質には主体性がある」という主張は、アッサリと取り下げられたのでしょうか。

○ 本題です。

>「物質と精神」というモデルをあらためて立てたわけではなく、科学的世界観によって説明すべき課題ではないでしょうか。

 これは課題の提示だったのですね! 「物質と精神」というモデルをたてられて、それを主張されたのではなくて。それなら、話がまるで違います。
 Kina さんによる”世界の合理的理解”のための理論モデル、という前提で私はこれまでものを申しておりました。これが世界を理解し説明する、Kina さんの世界観、世界のモデルとして主張されたものではないなら、私には格別に言うべきことはありません。
 私はとんでもない勘違いをしていたようです。Kina さんは、課題を提示しようとされていただけで、特に何も主張されてはおらなかった。
 そうであるなら、たとえば理論の形になっているかを吟味するとか、モデル内の概念の不明確さを問題にするとか、論理的な整合性や一貫性を問うとかいうことは、実に不適切なことです。また、主張を取り下げるとか、主張を変更される、とかいうこともないわけです。
 ごめんなさい。<(_ _)>

 以下は、いわば蛇足です。

 Kina さんは、『・・・』という実感を最初に与えられている前提とされている。
 その『・・・』を重要だと考えておられる。
 その『・・・』を何としても守ることを課題としておられる。
 そうすることが良いことだと考えておられる。

 『・・・』の中身はともかくとして、以上のようなことをおっしゃっているのだと、私は推測し、解釈し、理解しました。前にも述べたことがありますが、これが、Kina さんの「究極の選択」ならば、私はそれを尊重したいと思います。

 老婆心ながらということで、
・ そういうアプローチの仕方は既に挫折しているのではないか。
・ そういうアプローチの仕方に実りがあるとは思えない。
などと言ってみたところで、モデルを作るアプローチをしているわけではないのですから、余計なお世話というところでしょう。

 しかしそれだけでは終わらず、むしろ逆に、私にもKina さんのようにすることを勧め、そのようにしていないと批判される。
 しいて言えば、これが、Kina さんのご主張なのでしょう。

>桜井さんの物質観には、物質は自然法則に従うだけの受動的な存在とされているように私には思えます。

 私は、”物質観”というようなものを述べた記憶がありません。また、物質は受動的か能動的かというような発想も、私にはありません。

>私は物質が「未知のプラスα」を持ち、その「未知のプラスα」が人間の精神の主体性につながるものであって、「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではないと申上げているのです。

 はい、これを問題提起というふうに考えると、私にも意味が通じなくはありません。

>「物質」と「精神」は、問題解決のためのアプローチではなく、「問題」そのものです。

 Kina さんには、それが”問題”なのだということは理解しました。

>私が辞書の意味を引用したのは、それぞれが勝手な用語を使っていては、議論がなりたたないことからです。したがって、私としましては、それぞれの用語に特別な意味を込める意図はないし、一般的な意味で使いたいことを申しているわけです。

 世界の理論モデルでないなら、私にはそれで何の問題もないと思います。

 >これは、私が「手を挙げようと思えば、手を挙げることができるし、手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。」という普通のことを意味しております。

 「精神」が「物質」を動かす「原因になる」とか、「精神」が「物質」に「働きかける」ということは、以上のような「普通のこと」と同じだ、というふうに考えられているわけですね。それ以上の何も意味せず、それ以上の何も主張されていない。それなら私には、ことさら何も言うべきことはありません。「精神」や「物質」とは何なのかというようなご説明も不要です。

>このようなメカニズムはまだ人類にとっては未知のところだと思います。しかしながら、私たちが実感している自由意志や主体性が幻でも錯覚でもなく、物質の本性から理解しえるものであるとの立場をとることが、科学的世界観を徹底させるものだと思っております。

 私は、そうは思っておりません。

>実感を表現するだけであれば、科学的世界観ということはできません。

 その通りだと、私も思います。

>その実感に関する科学的説明を試みるのが科学的世界観だと思います。

 私は、そうとも思いません。

>そうであるならば、物質そのものに主体性なり自由意志なりを構成しえる本性を備えているとの物質観が誤りであるとか、自由意志が「錯覚」であるなどとは言えないのではないでしょうか。

 誤りだとか、錯覚であるなどと、私は言いません。

>二元論はそのスタートにおいて誤っていることはおっしゃるとおりだと思います。それを克服するのに、主観的側面からのアプローチと、客観的側面からのアプローチがあるのでしょう。

 Kina さんが”主観的側面からのアプローチと、客観的側面からのアプローチ”とおっしゃるのを、ここではじめて聞きました。
 ここから何か新しいアプローチや主張をなされる、ということなのでしょうか。

>ここでおっしゃっていることは、まさにすべての人にとっての現実です。科学的世界観とそれ以外の世界観を分けるものは、この現実に関して科学的な説明を与えるかどうかだと思います。

 そうかもしれません。

>私の「物質の主体性」なり「未知のプラスα」というのは、大雑把な仮説ではありますが、科学的認識の方向性に沿ったものだと思います。

 私は、そうは思いません。

>「科学的世界観の位置づけ」でおっしゃるように、唯物論、唯心論、宗教を含む「世界の科学的説明を採用したすべての世界観の総称」ではないと思います。

 私は、そう考えているので、そのように書きました。

>先に述べられたことは、我々の実感を単に記述されているだけであり、それに対する科学的説明を試みてもいらっしゃらないのです。

 おっしゃるとおりです。

>そこでは科学的な説明は、「人間機械論」に至る「客観的な公準」としてすでに放棄されているのであり、何も乗り越えてはおられないのです。

 私は、”「客観的な公準」から「人間機械論」に至る”とは考えておりませんし、”「客観的な公準」としてすでに放棄した”、というようなこともありません。
 なお、乗り越えられたと述べたのは、「問題のたて方」や「発想」のことであり、科学的説明が既にできた、というようなことを述べているわけではありません。



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