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科学的世界観の掲示板
  
科学的世界観  ―― 科学的知識に基づく 世界の統一的把握と その帰結及び限界 ――http://www.geocities.jp/nbsakurai/
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 【 ・・・ 休 眠 中 ・・・ 】   休眠します。ていうか既に休眠状態に入ってます。

 『科学的世界観』、『科学的世界観のBlog』、『科学的世界観の掲示板』、というふうにこれまでやってきましたが、
内容的にも方法論的にも、そろそろもう一区切りなのかな、というような感じになってきてまして。

 これまで気に留めていただいた方、ありがとうございました。

 
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科学的世界観は決定論か? その2のこと (つづき) Kina (ip68-100-140-43.dc.dc.cox.net) 2006/07/16(日) 23:51:24
◆(1)「主体性を持った精神の働き(自由意志)は、自然法則に従う物質の運動によりもたらされた「幻」であり「錯覚」である」では、「幻」「錯覚」ということがどういうことなのか。
◇「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない」とおっしゃるのは、「主体性を持った精神の働き(自由意志)は、自然法則に従う物質の運動によりもたらされた「幻」であり「錯覚」である」との主張に他ならないと思います。

◆(2)「 脳で営まれる意識活動がそうであるように、精神は物質に働きかけることができる」では、「精神」、「物質」、前者が後者に「働きかける」ということはどういうことなのか、ということがまず問題となるのではないかと思います。先に述べたとおりです。

◇ 「精神は物質に働きかける」というのは、通常の目的意識的に行動することを言っていると、お考えいただいて結構です。

◆ (1)よりも(2)の方が妥当であるとする根拠もまた、私はないと思っています。(2)が「絶対的に正しい」との確証となるようなものもないと思います。

◇「私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感している」ことは、何にもまして明証性を有しております。これが確証でないとするならば、この世界にほとんど確かなことはないと思います。ニュートン力学も相対性理論も量子力学も何の根拠にもならないでしょう。

◆(1)は、「私たちの実感と余りにもかけ離れたもの」であるとは私も思いますが、ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてになるとは限らない、それだけを根拠にして結論は出せない、と私は考えています。この世界というものは、そういう素朴な実感というものからはかなりかけ離れた、いわば奇想天外なものでもあるようです。自分の実感を前提とするというのは、場合によっては、単に先入観にとらわれている、ということになりかねないかもしれません。

◇ 科学にしてもどのような学問にしても、最終的に常識に反するものはないと思います。相対性理論にせよ量子力学にせよ例外ではありません。

◇ むしろ、科学にしてもどのような学問にしても、確証とするのは、我々の実感することのできる明証性であり、それは健全な常識と同じ基盤に根拠を持っております。


◆ 生命体=原因も結果も内部において因果関係が”半ば”閉じている”システム”、というのは、私にも全く理解できないこともありません。先に私は、このように述べました。”半ば”ではなく閉じているとういうのであれば、私の考えとは違います。半ば閉じているというのは、言い方を変えれば、半ば開いているということでもあるでしょう。「自然法則に従いつつ主体性を有する物質」、「原始的な主体性」、それが「物理現象に働きかける原因となる」ということが、どういうことなのか、もう少し明らかにする必要あるように思います。「脳において高度に組織化されることにより人間の意識活動が営まれている」、「物理現象の結果である意識現象」というのは、私もそうなのではないかと思います。「物理現象」の結果が「物理現象」に働きかける原因になるというのは、それ自体はそれほど驚くべき興味深いこととは思いません。それはいわば「物理現象」の中だけで「閉じている」、それ以外の「精神」などというものは必要ない、という主張とも読むことができます。

◇ 私が申上げているのは、「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない」とおっしゃっていることへの反論としての主張であります。究極的に「物理現象」の結果が「物理現象」に働きかける原因になることは、そのとおりであるのですが、主観的な意識の存在により、主体的に「物理現象」に働きかけることになっているのであるということです。

◇すなわち、物質の進化は、生命の誕生から更なる発展をとげ、自ら世界を意識しつつ、主体的に働きかけるようになってきたということが言いたいのです。

◆ 現実に、手を挙げようと思えば手が挙がるように、精神が物質の運動の原因になっているという、日常に見ていることを、私も、これらが「自然法則に反する現象」だとは思っておりません。「精神が物質の運動の原因になっている」のだとしても、それもおそらく、「自然法則に適った現象」なのだろうと、私はとりあえず思っています。問題はそこにではなく、自然法則に反するものとして「精神」を規定し、そういう「精神」が「運動の原因」になる、したがって、そこにおいては自然法則が破られている、超越されている、というような発想はどうなのか、ということだろうと思います。自然法則に従う「精神」ならば、私には特に大きな問題ではありません。「精神」はそこで何をするのか、「精神」という概念がそこでなぜ必要とされるのか、「精神」とは何を意味するものなのか、という点はともかくとするならば。

◇ 精神が自然法則に従うものであることは、すでに申上げたとおりです。しかしおっしゃるところの「物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない」とは同じではありません。主観的な意識の存在により、主体的に「物理現象」に働きかけることになっているのであるということです。

◇「精神」はそこで何をするのか、「精神」という概念がそこでなぜ必要とされるのか、「精神」とは何を意味するものなのか、に対するお答えとしては、「精神」とは、人間そのものであり、私そのものであり、だからこそ、「精神」と言う概念を「物質」とは別に必要とするのでしょう。


◆ 全体を通して、私自身の考え方を述べれば、次の通りです。
@ 最初に、「物質」や「精神」というものをある確かな実体として想定し、
A 次にその間の相互作用があるのかないのか、どうであるのかを考える。
 このような問題のたて方、考え方、解き方、これが妥当なものなのかどうか、私はまず疑問に思います。「物質」や「精神」というものは、いったい何なのか、どういうものなのか、果たしてそれほど確固とした根拠を持つ実体なのかどうか。「物質」と「精神」との間の「相互作用」とか「因果関係」というのは、何なのか。その入口の段階で、私は躊躇してしまいます。ちなみに、疑問は他にもあります。「主体性」とは何なのか、どういうものなのか。「意志」とは、「意識活動」とは? 「原因」とは、「結果」とは? 私に簡単に答えられるものではありません。 仮にそのような疑問はとりあえず置くこととしても、「物質」と「精神」というアプローチの仕方は、私の感触では、同じところを行ったり来たりの堂々巡りをしているようにもみえます。ひとつの議論として、何か実りのある果実に結実する見込みがあるとも、私には思えません。そのようなアプローチの仕方を、私は採っておりません。

◇ 心身二元論の問題は、デカルトの以前の時代からの難問です。これに対する一定の回答を与えることは、哲学の任務として省くことはできないと思います。「主体性と客観性という二つの矛盾した仮定を両方とも受容れ、物事をある場合には客観的なものとして、別の場合には主体的なものとして理解して対処する」というのは、心身二元論を「主体と客観」の二元論に置き換えたにすぎないものに思われます。

◇ 科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握することでしょう。手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。このようなことは、私たちが日常的に見ていることです。すなわち、意思は、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることから、これ以上の証明を要する問題ではないと思います。これに合理的な説明を与えることこそ、科学的世界観と言いえるものではないかと思います。



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