閉じる

科学的世界観の掲示板
  
科学的世界観  ―― 科学的知識に基づく 世界の統一的把握と その帰結及び限界 ――http://www.geocities.jp/nbsakurai/
科学的世界観のBlog http://nbsakurai.exblog.jp/


 【 ・・・ 休 眠 中 ・・・ 】   休眠します。ていうか既に休眠状態に入ってます。

 『科学的世界観』、『科学的世界観のBlog』、『科学的世界観の掲示板』、というふうにこれまでやってきましたが、
内容的にも方法論的にも、そろそろもう一区切りなのかな、というような感じになってきてまして。

 これまで気に留めていただいた方、ありがとうございました。

 
URL:

お名前 : メール :
タイトル:

 



[最初のページに戻る]
[前の30件] [Reload] [次の30件]


実感はそんなに信頼できる? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/17(月) 17:13:31
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』
・ nbsakuraiの 『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』のこと

 既に『nbの帰結は「人間機械論」?』で、「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であると私が考えているわけではない、ということを述べさせていただきました。ここでは、ヒトの素朴直感、実感というものについての、私の考えを述べてみたいと思います。

 まず、以下のように、Kina さんのこの点についてのご発言を、整理してみました。これは、私の視点で、いわば、あちこち勝手な部分を好きなように切り貼りして加工したものですから、Kina さんのお考えを正しく反映したものとは限りません。不本意な点があれば、ご指摘いただきたいと思います。

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

● 主観的な実感

 手を挙げようと思えば手が挙がります。手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。このようなことは、私たちが日常的に見ていることです。
 すなわち、意思(精神、意識活動)は、物質を動かす原因となっています。これが何故問題になるのでしょうか。

 あれこれ綿密に考えた目的意識的行動は明らかに、行動に先立っており、行動(肉体の運動)の原因となっております。

 先にも言いましたように、手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。このようなことは、私たちが日常的に見ていることです。すなわち、意思(精神、意識活動)は、物質を動かす行為に先立っております。

 問題は次の二つのうちのどちらを選ぶかということだと思います。
(1) 主体性を持った精神の働き(自由意志)は、自然法則に従う物質の運動によりもたらされた「幻」であり「錯覚」である。
(2) 脳で営まれる意識活動がそうであるように、精神は物質に働きかけることができる。 私は迷うことなく、(2) を選びます。 (2)は、私たちが現実に実感できることです。(1)は、私たちの実感と余りにもかけ離れたものです。意識現象は単なる脳内の物理的化学的現象の結果ではありません

 これらは、どちらでも成り立つというような対等の選択肢では決してないと思います。また、上記の(1)と(2)を比較した場合、(2)よりも(1)の方が妥当であるとする根拠は何もないと思います。人間の意識活動と対応して、脳の物理的化学的変化が起こっていることを見て、あたかも(1)が証明されたように言う人々もいますが、(1)が絶対的な正しいとの確証となるような、物質についての認識は発展していません。

 現実に、手を挙げようと思えば手が挙がるように、精神が物質の運動の原因になっているという、日常に見ていることを、あたかも自然法則に反する現象であるかのようにとらえることは、そのスタートにおいて誤っているように思われます。

● 主観的な実感の明証性

 すなわち、意思は、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることから、これ以上の証明を要する問題ではないと思います。私たちの科学的知識もそのような実感を超えた明証性を持ったものではありません。

 「私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感している」ことは、何にもまして明証性を有しております。これが確証でないとするならば、この世界にほとんど確かなことはないと思います。ニュートン力学も相対性理論も量子力学も何の根拠にもならないでしょう。

 私は、私自身の意志が私の行動に先立っていることを明らかに実感しております。それはこれ以上証明の要らないものであります。
 前記の実感に対する明証性以上に、証明が必要とされる根拠は何でしょうか。

 むしろ、科学にしてもどのような学問にしても、確証とするのは、我々の実感することのできる明証性であり、それは健全な常識と同じ基盤に根拠を持っております。

 科学にしてもどのような学問にしても、最終的に常識に反するものはないと思います。相対性理論にせよ量子力学にせよ例外ではありません。

● 合理的な説明の必要性

 このような現実に対して科学的な態度とはどのようなものでしょう。

 科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握することでしょう。

 自然法則に従うだけの物質を想定して、そのような物質から、能動的な精神が生じるとは思われないから、能動的精神は錯覚であると結論付けるのが、科学的態度なのでしょうか。
 これに合理的な説明を与えることこそ、科学的世界観と言いえるものではないかと思います。

 (1)が私たちの実感と余りにもかけ離れたものである限りは、(1)が確実に証明される必要があります。そのような確証がない以上、(2)を前提として物質をとらえるべきではないでしょうか。

 「精神」の「物質」への「反作用」ことさら想定することは必要はないとおっしゃるのであれば、まず、なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。

 「物質の主体性」すなわち「未知のプラスα」をことさら想定することが必要ないとおっしゃるのであれば、まず、なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。

 「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。問題は、意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの合理的科学的な説明です。

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 以上の論理を、私なりに、次のように解釈してみました。違っていれば、ご指摘ください。

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

@ 自分は、またはヒトは、”これこれ”のことを現実に目撃し、明らかに実感している。
A これに反する意見は、実感と余りにもかけ離れている。
B この実感の内容には明証性があり、疑いえない。何かを確証するのは、この実感することのできる明証性である。これで確証であり、これ以上の証明は要らない。
C もしもこの実感の内容に反することを主張するとするなら、主張する側がそれを合理的に説明し証明しなければならない。それがないうちはこの実感の内容を正しいとすべきである。

返信
*  実感はそんなに信頼できる? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/17(月) 17:19:51

(続き:再掲)
@ 自分は、またはヒトは、”これこれ”のことを現実に目撃し、明らかに実感している。
A これに反する意見は、実感と余りにもかけ離れている。
B この実感の内容には明証性があり、疑いえない。何かを確証するのは、この実感することのできる明証性である。これで確証であり、これ以上の証明は要らない。
C もしもこの実感の内容に反することを主張するとするなら、主張する側がそれを合理的に説明し証明しなければならない。それがないうちはこの実感の内容を正しいとすべきである。

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 私は、
 上記@とAに、特に異を唱えるつもりはありません。ほぼおっしゃる通りだと思っています。(私が自ら表現すれば、すこし別の形になるでしょうが。)
 Bについては、既にご承知の通り、反対の意見です。
 Cで要求されている説明を、私の力の及ぶ範囲で、してみたいと思います。

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【1】 実感の主観性

 おっしゃるように、
>科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握すること、―― だとするならば、
 上記の「実感」というのは、まさしく主観的な実感であり、独断とまでは言いませんが、「主観による」ものであると私は考えます。少なくとも私に基準では、客観的なものとは言えません。

【2】 主観的な実感の信頼性

 前に述べたように、ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてになるとは限らない、それだけを根拠にして結論は出せない、と私は考えています。
 この世界というものは、そういう素朴な実感というものからはかなりかけ離れた、いわば奇想天外なものでもあるようです。

 そういう生活日常の直感から発想するならば、例えば、物が下に落ちるのは自明の理である。物には本来の場所があり、それは下だ、なんて考えてもいいだろう。相対性理論は間違っている。なぜなら素朴直感に反するから。弟が兄より年寄りになるなんてことが、あるはずがないじゃないか。量子論は受け容れられない。なぜなら、粒子が波だなんて素朴直感に矛盾している。粒子と波がゼンゼン違うものだなんてことは、あたりまえの常識じゃないか。
     ―― 『生活実践のための要請される、素朴心理学、心の素朴実在論

【3】 この実感の説明

>なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの説明です。

 充分にできるとは思いませんが、私にできる限りの努力はしてみます。

 私たちの感覚器官は、世界が「本当は」どうであるかについての「真実の」像を与えるために形づけられていると考える人がいるかもしれない。しかし、それが、私たちが生き残るのを助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定するほうが安全だろう。ある意味で、感覚器官がなすべきは、脳が世界についての有効なモデルを構築するのを助けることであり、このモデルのなかで私たちは動きまわるのである。それは、現実の世界についての一種の「仮想現実」シミュレーションなのである。
     ―― 『生き残るために有効なバーチャル・リアリティ

 生物の進化論が正しいなら、その限りですべての生物は、何はともあれ生きようとしなければなりません。うまく生きられなければなりません。そうでなければ、生物進化の過程を生き残ることができず、それをうまくやってきたものが現在まで生き延びてきたわけです。そして人は、そういう進化の過程を生き延びてきた生物なわけです。
 そうであるなら、「イノチにこだわる」っていうのは、修行をして悟るまでもなく、むしろ生物としての当然の性質であるわけです。生物進化は、種に働くのではなく、生物個体に働くというのですから、「ジブンにこだわる」っていうのも、いわば当然とも言えます。
     ―― 『唯物から「空」に至る道

 私たちの脳は本質的に、モデルをつくる機械です。私たちは、それにもとづいて行動するための、有用な、世界のバーチャル・リアリティ・シミュレーションを構築する必要があります。(中略) さらに、この内部のシミュレーションを完成させるためには、他者の心のモデルだけではなく、それ自身のモデル、すなわち安定的な属性、人格特性、能力の限界(何ができて何ができないか)も、そこに含めなくてはなりません。
     ―― 『自己とは?

 意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自身のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう。
     ―― 『意識 ―― 世界をシミュレートする脳

 自由な意思はわれわれにはないと認知科学が教えるのに対し、われわれは、そのような信念を断念できない。われわれはそれを抱き続けるように「ほとんど強制されている」のである。
     ―― 『自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる

【4】 この実感が正しくないという根拠

 Kina さんのおっしゃるところの、(2)よりも(1)の方が妥当であるとする根拠も、ないわけではありません。
・ 目的意識は行動に先立っていない、意志はヒトの行動に先立ってはいない、意思(精神、意識活動)は行為に先立っていない。
―― という実験結果があるのです。それがどの程度の確度のものであり、どの程度確立されたものかは、私には判断がつきませんが。

 リベットは、私たちが動こうと決めたときに脳の中で何が起きるのかを探った。意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か。最近、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジの生理学者パトリック・ハガードが、リベットのこの実験を再現した。実験はとても簡単だった。パトリックの実験動物になった私が言うのだからまちがいない。私の頭蓋に取りつけられた電極が、脳の運動皮質の電気活動を監視する。運動皮質は運動の生成に関与する皮質の一部である。私がなすべきことは、いつでも自分の好きなときにボタンを押して、それを押したいと思った時間を正確に告げることだった。
 リベットは、動きたいという意識的欲求が先に起こり、それから脳の運動野が活動をはじめると思っていたが、まったく逆だということを発見した。動こうという決断は、運動野が行動の準備を始めてから約一秒後にやってくる。あなたの脳は、潜在意識のなかで既に動く決断をしており、「あなた」はその動くプロセスが作動したとたん、その存在に気づくにすぎないのである。
     ―― 『意識的な自己の支配は幻想という発想 − 意識は潜在意識の産物

・ 意識が関与しないところで、ほとんどすべての「現実」が起きている。
・ 意識はその「現実」にたいへん多くを依存している。
・ 意識はよく怠けたり、サボったりしている。
・ 意識は、最大でも数十ビット/秒の低速・低容量システムである。
・ 意識は「現実」のごく僅かな部分のシミュレーションをしている。
・ 意識は「現実」のたいへん粗雑なシミュレーションをしている。
・ 意識がしているシミュレーションは、あんまり「現実」と似ていない。
・ 意識はほとんど「現実」を知らない。
・ 意識はほとんど「現実」に関与できない。
     ―― 『ユーザーイリュージョンという発想

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 要点をくり返すならば、・ヒトの素朴直感は、何ら証明になるものではない。・確立された科学的事実が、素朴直感に反することは現にある。・この場合の素朴直感が間違っているという根拠も、全くないわけではない。というのが私の考えです。
 これでKina さんに充分がご納得いただける説明になっている、とは思っていませんが、少なくとも、私がどんなことを言っているのか、そのおおよその見当をつけていただけるようになったのではないかと思います。

 ここでは、ヒトの素朴直感、実感というものについて、述べさせていただきました。ここでは、それ以外のことを述べようとはしておりません。例によって、私のこの発言にコメントしていただく場合は、「返信」という形でしていただければ幸いです。


返信
*  Re:実感はそんなに信頼できる? Kina (ip68-100-140-43.dc.dc.cox.net) 2006/07/23(日) 23:18:33
●【1】 実感の主観性
【おっしゃるように、科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握すること、―― だとするならば、 上記の「実感」というのは、まさしく主観的な実感であり、独断とまでは言いませんが、「主観による」ものであると私は考えます。少なくとも私に基準では、客観的なものとは言えません。】 「実感が主観であり、客観的なものではない」とおっしゃるのはそのとおりです。

●【2】 主観的な実感の信頼性

【ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてになるとは限らない、それだけを根拠にして結論は出せない、と私は考えています。 この世界というものは、そういう素朴な実感というものからはかなりかけ離れた、いわば奇想天外なものでもあるようです。 そういう生活日常の直感から発想するならば、例えば、物が下に落ちるのは自明の理である。物には本来の場所があり、それは下だ、なんて考えてもいいだろう。相対性理論は間違っている。なぜなら素朴直感に反するから。弟が兄より年寄りになるなんてことが、あるはずがないじゃないか。量子論は受け容れられない。なぜなら、粒子が波だなんて素朴直感に矛盾している。粒子と波がゼンゼン違うものだなんてことは、あたりまえの常識じゃないか。】 「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてにならない」ことは否定しません。ただし、「必ずしも」です。人間の感覚や知覚が、錯覚を起こすことはあり得ます。科学においては、その感覚や知覚を厳格に管理することにより、検証しているのであり、客観的真理とされる科学的知識の検証も「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識」に基礎を置いております。相対性理論からは、我々の日常において「弟が兄より年寄りになる」ことは導かれません。その意味では素朴直感に反してはいません。ニュートン力学だって、力が働かない状態では、物体は等速直線運動するとしていますが、たいていのものは力を加え続けないとすぐにとまってしまい、素朴な直感に反するものです。しかし、ニュートン力学を理解し、摩擦や流体抵抗を理解すれば、素朴な直感に矛盾しないことが分かるわけです。したがって、科学的認識は「究極的には」素朴な直感に矛盾しないものです。素粒子を粒子や波動としてとらえるのは、人工的なモデルでしかありません。素粒子が先にあるのであり、人間が粒子や波動として表現しているに過ぎません。ミクロの世界においてマクロな世界と異なった様相があっても、素朴な直感に矛盾してはおりません。

●【3】 この実感の説明
【なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明について】
【私たちの感覚器官は、世界が「本当は」どうであるかについての「真実の」像を与えるために形づけられていると考える人がいるかもしれない。しかし、それが、私たちが生き残るのを助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定するほうが安全だろう。ある意味で、感覚器官がなすべきは、脳が世界についての有効なモデルを構築するのを助けることであり、このモデルのなかで私たちは動きまわるのである。それは、現実の世界についての一種の「仮想現実」シミュレーションなのである。―― 『生き残るために有効なバーチャル・リアリティ』】 「感覚器官が、私たち生存を助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定する」ことと、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。むしろ物質が単純に自然法則に従うだけのものであれば、人間の意識や主体性など存在する必要がないのであり、それがあるかのような幻想がどのようなメカニズムで生まれるのかが問題なのです。

【生物の進化論が正しいなら、その限りですべての生物は、何はともあれ生きようとしなければなりません。うまく生きられなければなりません。そうでなければ、生物進化の過程を生き残ることができず、それをうまくやってきたものが現在まで生き延びてきたわけです。そして人は、そういう進化の過程を生き延びてきた生物なわけです。 そうであるなら、「イノチにこだわる」っていうのは、修行をして悟るまでもなく、むしろ生物としての当然の性質であるわけです。生物進化は、種に働くのではなく、生物個体に働くというのですから、「ジブンにこだわる」っていうのも、いわば当然とも言えます。    ―― 『唯物から「空」に至る道』】
上述とまったく同じであり、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。

【私たちの脳は本質的に、モデルをつくる機械です。私たちは、それにもとづいて行動するための、有用な、世界のバーチャル・リアリティ・シミュレーションを構築する必要があります。(中略) さらに、この内部のシミュレーションを完成させるためには、他者の心のモデルだけではなく、それ自身のモデル、すなわち安定的な属性、人格特性、能力の限界(何ができて何ができないか)も、そこに含めなくてはなりません。 ―― 『自己とは?』
 意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自身のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう。
―― 『意識 ―― 世界をシミュレートする脳』 】 上述とまったく同じです。

【自由な意思はわれわれにはないと認知科学が教えるのに対し、われわれは、そのような信念を断念できない。われわれはそれを抱き続けるように「ほとんど強制されている」のである。    ―― 『自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる』】上述とまったく同じです。また、「そのような信念を断念できず、われわれはそれを抱き続けるように『ほとんど強制されている』」からではなく、そのような現実があるから信念を抱いているのです。


【4】 この実感が正しくないという根拠
【リベットは、私たちが動こうと決めたときに脳の中で何が起きるのかを探った。意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か。最近、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジの生理学者パトリック・ハガードが、リベットのこの実験を再現した。実験はとても簡単だった。パトリックの実験動物になった私が言うのだからまちがいない。私の頭蓋に取りつけられた電極が、脳の運動皮質の電気活動を監視する。運動皮質は運動の生成に関与する皮質の一部である。私がなすべきことは、いつでも自分の好きなときにボタンを押して、それを押したいと思った時間を正確に告げることだった。
 リベットは、動きたいという意識的欲求が先に起こり、それから脳の運動野が活動をはじめると思っていたが、まったく逆だということを発見した。動こうという決断は、運動野が行動の準備を始めてから約一秒後にやってくる。あなたの脳は、潜在意識のなかで既に動く決断をしており、「あなた」はその動くプロセスが作動したとたん、その存在に気づくにすぎないのである。―― 『意識的な自己の支配は幻想という発想 − 意識は潜在意識の産物』】
リベットの実験のことは私も承知しておりますが、ここで問題とされているのは、「意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か」です。実験の厳密性に関しての疑問はともかくとして、仮に無意識的な運動の実行が、意識的な決定に先立つようなことがあっても不思議なことではありません。例えばバッターが高速のボールを打つときに無意識的な運動の実行が先立って、意識的な決定は、微調整程度の役割しか果たしていなくても、本質的な問題ではないと思います。人間の精神はもちろん「意識」に焦点が与えられた言葉ではありますが、「意識」と「無意識」の境界ははっきりしたものではありません。無意識が「自然の法則性」の管轄内、意識が「自然の法則性」の管轄外というようなものではありません。物質の主体性の組織化レベルは、素粒子段階から、人間の意識に至るまで、無限の階層をなしております。むしろ上記の実験にしても、人間の意識の外においても、主体的な自律性が現れているのであり、物質は「自然の法則性」に受動的に支配されているだけのものではないことを示すものだと思います。

返信
*  『実感』の非明証性 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/24(月) 04:00:07


 私はここで、Kina さんのお考えはこうだと私が考えた、
>この実感の内容には明証性があり、疑いえない。何かを確証するのは、この実感することのできる明証性である。これで確証であり、これ以上の証明は要らない。
に対し、
・ ヒトの素朴直感は、何ら証明になるものではない。
ということを述べたつもりです。

>「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識というようなものは、必ずしもあてにならない」ことは否定しません。

 ”証明になる”という”主観的な実感の明証性”のご意見は、そのまま維持されているのかどうか。

 以下は、いわば蛇足です。

>ただし、「必ずしも」です。人間の感覚や知覚が、錯覚を起こすことはあり得ます。科学においては、その感覚や知覚を厳格に管理することにより、検証しているのであり、客観的真理とされる科学的知識の検証も「ヒトの実感、素朴直感、日々の生活から生まれた常識」に基礎を置いております。相対性理論からは、我々の日常において「弟が兄より年寄りになる」ことは導かれません。その意味では素朴直感に反してはいません。ニュートン力学だって、力が働かない状態では、物体は等速直線運動するとしていますが、たいていのものは力を加え続けないとすぐにとまってしまい、素朴な直感に反するものです。しかし、ニュートン力学を理解し、摩擦や流体抵抗を理解すれば、素朴な直感に矛盾しないことが分かるわけです。したがって、科学的認識は「究極的には」素朴な直感に矛盾しないものです。素粒子を粒子や波動としてとらえるのは、人工的なモデルでしかありません。素粒子が先にあるのであり、人間が粒子や波動として表現しているに過ぎません。ミクロの世界においてマクロな世界と異なった様相があっても、素朴な直感に矛盾してはおりません。

・ 確立された科学的事実が、素朴直感に反することは現にある。
というのが、私の考えです。

>「実感が主観であり、客観的なものではない」とおっしゃるのはそのとおりです。

 これと、
>科学的態度とは、主観による独断を斥け、あくまでも、現実に基づいて、現実を理性的に把握すること
という先の発言は、どのように整合するのでしょうか。

>「感覚器官が、私たち生存を助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定する」ことと、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。むしろ物質が単純に自然法則に従うだけのものであれば、人間の意識や主体性など存在する必要がないのであり、それがあるかのような幻想がどのようなメカニズムで生まれるのかが問題なのです。
>上述とまったく同じであり、自然の法則性のもとで「物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感」していることとは何の因果関係もありません。
>上述とまったく同じです。
>上述とまったく同じです。また、「そのような信念を断念できず、われわれはそれを抱き続けるように『ほとんど強制されている』」からではなく、そのような現実があるから信念を抱いているのです。

 私は、ここで、
>なぜ、私の意志が行動に先立ち、物質に働きかけるという現象を私が目撃し、実感しているのかの、合理的な説明をしていただく必要があります。意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの説明です。
というご発言に対し、実感の”合理的な説明”をしようと努めたつもりです。その要点は、次の通りです。

・ ヒトはそのような実感をもつようにできている。
 なお、少し付言すれば、そのような実感があることは、”そのような現実がある”か否かとはここでは無関係です。あるかもしれないし、ないかもしれません。

 確かに、”因果関係”や”メカニズム”の説明が必要とされるというのなら、充分ではないかもしれません。しかし一方で、Kina さんの”この実感の内容を正しいとすべきである”というご主張についても、充分な説明がなされているわけではないと私は考えております。
 Kina さんの主張だと私が考えた、
>もしもこの実感の内容に反することを主張するとするなら、主張する側がそれを合理的に説明し証明しなければならない。それがないうちはこの実感の内容を正しいとすべきである。
は、もはや成立たないと私は考えています。

>リベットの実験のことは私も承知しておりますが、ここで問題とされているのは、「意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か」です。実験の厳密性に関しての疑問はともかくとして、仮に無意識的な運動の実行が、意識的な決定に先立つようなことがあっても不思議なことではありません。例えばバッターが高速のボールを打つときに無意識的な運動の実行が先立って、意識的な決定は、微調整程度の役割しか果たしていなくても、本質的な問題ではないと思います。人間の精神はもちろん「意識」に焦点が与えられた言葉ではありますが、「意識」と「無意識」の境界ははっきりしたものではありません。無意識が「自然の法則性」の管轄内、意識が「自然の法則性」の管轄外というようなものではありません。物質の主体性の組織化レベルは、素粒子段階から、人間の意識に至るまで、無限の階層をなしております。むしろ上記の実験にしても、人間の意識の外においても、主体的な自律性が現れているのであり、物質は「自然の法則性」に受動的に支配されているだけのものではないことを示すものだと思います。

 私はここで、
・ この場合の素朴直感が間違っているという根拠も、全くないわけではない。
ということを述べさせていただきました。

 なお、Kina さんは、
>問題は、意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っていることを実感していることの合理的科学的な説明です。
と、先におっしゃった。
 それに対し、”意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っている”と決まったものではない、と私は申し上げた。

>仮に無意識的な運動の実行が、意識的な決定に先立つようなことがあっても不思議なことではありません。

 これは、”意思なり精神が、物質を動かす行為に先立っている”という主張を取り下げ、私の意見に同意していただいた、ということでよろしいのでしょうか。
 そしてその上で、

>意識的な決定は、微調整程度の役割しか果たしていなくても、本質的な問題ではない

 というふうに主張を変えられた、ということなのでしょうか。



返信

[最初のページに戻る]
[前の30件] [Reload] [次の30件]

管理メニュー
無料掲示板 スプラインBBS 検索&掲示板 検索サイト構築 WEB RANKING
人気サイトランキング