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 『科学的世界観』、『科学的世界観のBlog』、『科学的世界観の掲示板』、というふうにこれまでやってきましたが、
内容的にも方法論的にも、そろそろもう一区切りなのかな、というような感じになってきてまして。

 これまで気に留めていただいた方、ありがとうございました。

 
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「物質」と「精神」? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/23(日) 07:05:18
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』
・ nbsakuraiの 『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見
・ Kina さんの 『科学的世界観は決定論か? その2』のこと

 既に『nbの帰結は「人間機械論」?』で、「人間機械論」が「科学的世界観の帰結」であると私が考えているわけではない、ということを述べさせていただきました。それから、『実感はそんなに信頼できる?』で、ヒトの素朴直感、実感というものについて、私の考え述べさせていただきました。
 ここでは、「物質と精神」という発想、問題のとらえ方について、私の考えを述べてみたいと思います。

 まず、例によって、Kina さんのこの点についてのご発言を、私なりに整理してみることにします。でもこれは、私があちこち勝手な部分を好きなように切り貼りして加工したもので、Kina さんのお考えを正しく反映したものであるかどうか、前にも増して怪しいものです。不本意なところは、遠慮なくおっしゃっていただきたいと思います。

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

● 「物質」と「精神」、「意識活動」、「意思」というもの

 広辞苑によれば、いくつかの定義のうち、「知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き」という定義があり、これが私の言う「精神」に最も近いかなと思います。
 物質の定義として、「意識とは独立に存在し、我々の感覚の源泉であり、感覚を通じて意識に反映される、客観的存在」というものがあります。私もこのような意味で使っております。

 この定義に従えば「電荷、エネルギー、光、色、振動、波、質量」は明らかに「物質」でしょう。「情報、プログラム、信号、記憶、演算、制御」が「物質」かどうかは、多少難しくなります。しかし、これらに意味づけを与えているのは人間の「精神」であり、これらは、「物質」か「精神」かというよりも、物質に与えた機能でしょう。現時点の「人工知能」というものも同じようなものだと思います。動物の「知能、本能」になると、進化のレベルに応じて「精神」に近づいていくものだと思います。

 それぞれの定義を、逐一ご説明するまでもなく、文脈から明らかではないかと思います。言葉の定義はどこまで遡ってもつきるものではありません。
 一応ご説明させていただきますが、「意識活動」というのは、脳の心的活動としての側面の表現だと思います。「精神」は先の定義のとおりですが、「物質」に対する対立概念です。「意思」は決断をし選択した行為を実行する、精神における能動的な側面を表すものだと思います。

● 「精神」等の発生メカニズム

 「精神」というものは「物質」から生じているものであり、したがって一種の「物質現象である」というのは、おっしゃるとおりです。

 精神が、脳という肉体すなわち物質により影響を受け、密接に関係しているということは、精神は物質によって生じていることの証拠ということができます。

 私たち生命体は、外部との物質代謝を行いつつ、半ば閉じたシステムを形成しております。閉じたシステムにおいては、原因も結果という因果関係も閉じていることになります。

 自然法則に従いつつ主体性を有する物質の原始的な主体性が、因果関係が半ば閉じたシステムである生命体、特にその脳において高度に組織化されることにより人間の意識活動が営まれています。

 すなわち、物質の進化は、生命の誕生から更なる発展をとげ、自ら世界を意識しつつ、主体的に働きかけるようになってきたということが言いたいのです。

● 「物質」と「精神」との相互作用

 精神が物質により生じるのであればなぜ、精神が物質に反作用することがあり得ないのでしょう。作用があれば反作用があるのは、初歩的な自然法則です。精神が、物質により影響を受けるということは、反作用として、物質は精神の影響を受ける証拠ということができるのではないでしょうか。

 彼らも精神が、脳という肉体すなわち物質により、生じていることは認めているようです。物質により生じるのであればなぜ、物質に反作用することがあり得ないのでしょう。

 そもそも物質と精神とを相互作用しないのものと考えたり、一方向のみの作用として考えたりするのは、疑問です。むしろ精神の主体性は物質の特性の発現ととらえるべきではないでしょうか。

 物理現象の結果である意識現象が、組織化された主体性により、物理現象に働きかける原因となることは充分にあり得ることだと思います。

 人間は、肉体と精神を持っており、肉体は物質からなっています。精神が物質を動かすことができないものならば、人間の身体を意思により動かすことができるはずがないことになります。

 「精神は物質に働きかける」というのは、通常の目的意識的に行動することを言っていると、お考えいただいて結構です。

 主観的な意識の存在により、主体的に「物理現象」に働きかけることになっているのであるということです。

 私たちが意志に基づいて行動できるように、意識現象から物理的化学的現象への働きかけは、現に存在し、これらは、相互に作用しあうものです。

● 「物質」と「主体性」

 主体性を持たない物質という概念は、力学の質点などと同様に、当面理解しやすいように作られた架空のモデルではないかと思います。科学においては、当面の研究の対象となる側面以外を捨象して、研究を進める研究手法とられることから、そこでは常に物質のもつ原始的主体性は、問題になることはなく、無視されてきたのであり、その結果、科学における物質観が「主体性を持たない物質」となったのではないかと思います。

 物質が主体性を持っていることは、次の2点からも明らかではないでしょうか。(1) 人間の意識活動が脳の物理化学的変化により、大きく影響されることから、人間の精神すなわち意識活動は、脳という物質によって営まれていること、そして、(2) 脳という物質によって営まれている人間の精神が、主体性を有すること、の2点です。

 物質の主体性は、素粒子から、化合物、単細胞生物、そして人間に至るまでの無限の階層をなしています。人間の脳のような高度に組織化された主体性から見れば、素粒子の有する原始的な主体性などというものは、ほとんどないも同然ですが、ゼロではないはずです。

 無生物においても、地球内部の活動、星の誕生や消滅など、宇宙は、物質のみの主体性によりダイナミックな活動をしておりますし、原子や分子も静止しているものはありません。

 これらは、単に自然法則にしたがって運動しているだけと、とらえるよりも、物質本来の主体性ととらえた方が良いように思われます。

 物質が多様な形で運動をしていることは、それが物質本来のあり方であることを示しています。物質が、単に自然法則にしたがって運動しているだけであるならば、宇宙を客観的世界は、もっとシンプルなものであってもよいのではないでしょうか。

 もちろん、これらの運動には人間の精神の主体性のようなものとは全く異なるものであることは言うまでもありません。それは人間の脳のような、物質の主体性を精神として組織化するメカニズムとは異なるものです。

 物質と主体性切り離したとらえ方は、人間が物質からなることを最初から否定するものということができます。

 「主体性を持った物質」とは、「原理的に自然法則に従わない超越したもの」ではありません。「我々の厳密に認識していない機能」すなわち「未知のプラスαを備えた物質」のことです。

 「未知のプラスα」は、自然法則に従わないものであるとは言っておりません。それは、精神の能動性や主体性を構成するもととなるものであり、物質が単なる受身的な存在でないという特質をなすものです。

 現在の物質に関する知識は、物質を知り尽くして、最早何も残された未知のものはないのでしょうか。私が主張しているのは、人類の現在の物質に関する知識は、まだまだ遥かなる発展途上にあるのであって、生命の誕生のメカニズム、精神の主体性のメカニズムも、物質の未知の部分により、いずれは科学的に説明しえるものであるとということです

 「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。

● 自然法則との関係

 精神が物質に働きかけることはあり得ないと言う人々がいます。彼らは精神が物質の運動の原因になることが、あたかも自然法則に反する現象であるかのように考えているようです。

 現実に、手を挙げようと思えば手が挙がるように、精神が物質の運動の原因になっているという、日常に見ていることを、あたかも自然法則に反する現象であるかのようにとらえることは、そのスタートにおいて誤っているように思われます。

「主体性を持った物質」とは、「原理的に自然法則に従わない超越したもの」ではありません。

 精神が自然法則に従うものであることは、すでに申上げたとおりです。


● 「精神」と「物質」という発想の妥当性

 「精神」はそこで何をするのか、「精神」という概念がそこでなぜ必要とされるのか、「精神」とは何を意味するものなのか、に対するお答えとしては、「精神」とは、人間そのものであり、私そのものであり、だからこそ、「精神」と言う概念を「物質」とは別に必要とするのでしょう。

 心身二元論の問題は、デカルトの以前の時代からの難問です。これに対する一定の回答を与えることは、哲学の任務として省くことはできないと思います。
返信
*  「物質」と「精神」? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/23(日) 07:10:40

(続き)
         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 Kina さんの、以上のようなお考えを、うまくまとめることは私にはできませんが、以下、これに対する私見を述べさせていただきたいと思います。
 なお、前に”『科学的世界観は決定論か? その2』に対する私見”等で述べたことを、あらためてくり返すようなことは、できるかぎりしないようにしたいと思っています。

         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

● 「物質と精神」というモデルのもつ意味

 「物質」や「精神」という言葉について、私は辞書的な定義や、字義の説明を求めているわけではありません。たとえば、ネッシーや一角獣、ドラゴン、UFO、竜宮城などにも、辞書的な定義や字義というものはあるでしょう。だからといって、それらの言葉を使って、たとえばの話ですが、竜宮城からUFOに乗って一角獣がやってきたというような主張をしてみても、直ちに何らか意味があるとは、考えられません。

 「物質」や「精神」という言葉の通常の常識的な意味を、私も全く知らないというわけではありません。しかし、それらの言葉の通常意味するところは、きわめて曖昧で多義的なものであり、突きつめていくと私には何だかよく分かりません。少なくとも、それをそのまま使って、何らかの確固とした科学的あるいは哲学的な主張が組み立てられるほど、その意味内容はキチンとした明確なものではないと思います。

 「物質」と「精神」は相互作用する、「精神」が「物質」に「働きかける」、「物質を動かす原因」になる、というなら、「物質を動かす原因」になる「精神」とはどういうもので、「精神」が「働きかける」「物質」とはどういうものなのか。その間の違いの意味や相互の関係、そのあり方、働きかけ方、働きかけるメカニズム等々が伝わるような、そういう説明がなされる必要があると思います。
 それらについてのご説明がなければ、この「物質と精神」という説明モデルのもつ価値や意味は、評価のしようがありません。

 「物質の主体性」というお話も、同様です。
 もしも、
>「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。
というのであれば、それは、そこには「何かか分からない未知のものがある」、ということのみをおっしゃっている、というふうにも受け取ることができます。ここにおいて、「物質には主体性がある」という主張は、アッサリと取り下げられたのでしょうか。「未知のものがある」というのは、むしろよく分からないという、不可知の表明とも受け取れます。何かを具体的に説明する、主張する、というものではないでしょう。そこにおいて、ことさらに「物質の主体性」というような言葉を使う必要が、どこにあるのか私には理解できません。
 Kina さんのおっしゃる、「精神」や「主体性」の発生メカニズムの説明も、以上と同様です。

 「人間の身体を意思により動かすことができる」「目的意識的に行動する」ということが、イコール、「精神」が「物質」に「働きかける」というモデルが成立つ、ということを意味するとは限らない、と私は考えます。
 「精神」、「物質」、「働きかける」などという言葉を使わなくとも、同様な趣旨は表現でき、Kina さんご自身も、現に「意識活動」、「意思」「主体性」、「能動性」というような言葉を使って語っておられます。
 明証性を持って感じておられる「実感」を表現するというのなら、それで充分に表現できるものと思われます。ことさら、「物質と精神」というモデルをあらためて立てなければならないとは思えません。逆に、どうしてもそういうモデルを立てられるというなら、「物質」「精神」「働きかける」ということの意味内容を、それ相応に明確に説明される必要があると私は考えます。

 なお、「現在の物質に関する知識は、物質を知り尽くして、最早何も残された未知のものはない」などとは、私は考えておりません。

● 「物質と精神」という発想の妥当性

 前に述べたように、「物質」と「精神」という、このような問題のたて方、考え方、解き方、これが妥当なものなのかどうか、私はまず疑問に思います。「物質」や「精神」というものは、果たしてそれほど確固とした根拠を持つ実体なのかどうか。

 おっしゃるように、
>心身二元論の問題は、デカルトの以前の時代からの難問です。これに対する一定の回答を与えることは、哲学の任務として省くことはできないと思います。
とは、いちおう私も思います。しかしながら、「物質と精神」という概念を使ってこれに回答を与えることに、成功の見込みがあるとは私には思えません。

 これも私には、説明が直ちに簡単にできるようなものではありませんが、つぎの記事を引用させていただきます。

         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 物理主義に対するライバルとは、いわゆる(物心)二元論、(物心を含む)多元論、あるいは唯心論といった諸立場になるだろう。この中で、一つの研究プログラムとしていくらかでも真剣に追求されたことがあるものは二元論に限られると言ってよいだろう。デカルトが始めたこの有名な(あるいは悪名高い?)企ては、しかし、開始されてほどなくしてさまざまな理論的困難を露呈し、決定的に破綻したとは言えないにせよ挫折したままになっている、と評価すべきだと私は考えている(*12)。

(12) こう考える理由をここで詳しく述べることはできないが、しかし本章のテーマである心的因果一つを取り上げても二元論の弱点は容易に確認できる。この立場から心的因果の存在を説明しようとすれば、純粋に非物理的な心的事象、いかなる物理的エネルギーももたない事象がいくらかのエネルギーをもつ事象(身体的行動)を引き起こしうることを認めなければなくなる。つまり無から有が生じることを認めざるをえなくなるだろう。これは不可解である。この不可解さを避けようとすれば、二元論は心的因果に対するわれわれの強固な日常的信念を強引に否定せざるをえないことになる(いわゆる心身並行論、予定調和説、エピフェノメナリズムなどといった諸立場)。二元論のこのような理論的困難は、デカルトと同時代の哲学者たちによるデカルト批判においてすでに詳しくい明らかになっている。
                           ――  『物理主義』 

         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

、「物質」と「精神」というアプローチの仕方は、私の感触では、いつまでも同じところを行ったり来たりの堂々巡りをしているようにみえます。ひとつの議論として、何か実りのある果実に結実する見込みがあるとは、私には思えません。

 以下は、いわば蛇足です。

 Kina さんが、
>手を挙げようと思えば手が挙がります。手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。
という主観的な実感を信頼し主張されるというのなら、そのことを「実感」として主張されればそれでよいのではないか、と私は思います。

 nbが同様なことを主張するなら、たとえば、次のように表現したいと思います。
 私が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。私は、私自身について、私自身の感情や知覚や思考について、直接的な内的知覚をもっている。私は感情をもち、目的をもち、主体的に活動している。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだ、と。
 そこでは、「物質」と「精神」というような概念は不要です。いささか過激に表現するならば、そもそもそれは問題のたて方が間違っている。実質的には意味のない、空疎な問いである。このような時代ががった、カビの生えた発想はとうに乗り越えられている、というのが私の考えです。

 Kina さんは、私の推測にすぎませんが、それだけではどうにも済まされず、おそらくそれを、明確な言葉で科学的あるいは哲学的に理論化しようとされているのだと思います。そこが、Kina さんの哲学者たるゆえんなのでしょう。

返信
*  Re:「物質」と「精神」? Kina (ip68-100-140-43.dc.dc.cox.net) 2006/07/23(日) 21:16:05
● 「物質と精神」というモデルのもつ意味

私が辞書の意味を引用したのは、それぞれが勝手な用語を使っていては、議論がなりたたないことからです。したがって、私としましては、それぞれの用語に特別な意味を込める意図はないし、一般的な意味で使いたいことを申しているわけです。

◆【「物質を動かす原因」になる「精神」とはどういうもので、「精神」が「働きかける」「物質」とはどういうものなのか。】これは、私が「手を挙げようと思えば、手を挙げることができるし、手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。」という普通のことを意味しております。
◆【その間の違いの意味や相互の関係、そのあり方、働きかけ方、働きかけるメカニズム等々が伝わるような、そういう説明がなされる必要があると思います。それらについてのご説明がなければ、この「物質と精神」という説明モデルのもつ価値や意味は、評価のしようがありません。】 このようなメカニズムはまだ人類にとっては未知のところだと思います。しかしながら、私たちが実感している自由意志や主体性が幻でも錯覚でもなく、物質の本性から理解しえるものであるとの立場をとることが、科学的世界観を徹底させるものだと思っております。

◆【「物質の主体性」というお話も、同様です。
 もしも、「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。
というのであれば、それは、そこには「何かか分からない未知のものがある」、ということのみをおっしゃっている、というふうにも受け取ることができます。ここにおいて、「物質には主体性がある」という主張は、アッサリと取り下げられたのでしょうか。「未知のものがある」というのは、むしろよく分からないという、不可知の表明とも受け取れます。何かを具体的に説明する、主張する、というものではないでしょう。そこにおいて、ことさらに「物質の主体性」というような言葉を使う必要が、どこにあるのか私には理解できません。】 「未知」と「不可知」とはまったく異なります。「科学は進歩し続ける」ということが正しいとするならば、それは「常に『未知』がある」ということです。未知から既知にするのが、認識の発展であり、「不可知」ではありません。「不可知」は、永遠に不可知のままであり、そのようなものを私は想定しておりません。桜井さんの物質観には、物質は自然法則に従うだけの受動的な存在とされているように私には思えます。私は物質が「未知のプラスα」を持ち、その「未知のプラスα」が人間の精神の主体性につながるものであって、「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではないと申上げているのです。

【「人間の身体を意思により動かすことができる」「目的意識的に行動する」ということが、イコール、「精神」が「物質」に「働きかける」というモデルが成立つ、ということを意味するとは限らない、と私は考えます。
 「精神」、「物質」、「働きかける」などという言葉を使わなくとも、同様な趣旨は表現でき、Kina さんご自身も、現に「意識活動」、「意思」「主体性」、「能動性」というような言葉を使って語っておられます。
 明証性を持って感じておられる「実感」を表現するというのなら、それで充分に表現できるものと思われます。ことさら、「物質と精神」というモデルをあらためて立てなければならないとは思えません。逆に、どうしてもそういうモデルを立てられるというなら、「物質」「精神」「働きかける」ということの意味内容を、それ相応に明確に説明される必要があると私は考えます。】 実感を表現するだけであれば、科学的世界観ということはできません。その実感に関する科学的説明を試みるのが科学的世界観だと思います。「物質と精神」というモデルをあらためて立てたわけではなく、科学的世界観によって説明すべき課題ではないでしょうか。

【「現在の物質に関する知識は、物質を知り尽くして、最早何も残された未知のものはない」などとは、私は考えておりません。】 そうであるならば、物質そのものに主体性なり自由意志なりを構成しえる本性を備えているとの物質観が誤りであるとか、自由意志が「錯覚」であるなどとは言えないのではないでしょうか。

● 「物質と精神」という発想の妥当性

【「物質」と「精神」というアプローチの仕方は、私の感触では、いつまでも同じところを行ったり来たりの堂々巡りをしているようにみえます。ひとつの議論として、何か実りのある果実に結実する見込みがあるとは、私には思えません。】
「物質」と「精神」は、問題解決のためのアプローチではなく、「問題」そのものです。
二元論はそのスタートにおいて誤っていることはおっしゃるとおりだと思います。それを克服するのに、主観的側面からのアプローチと、客観的側面からのアプローチがあるのでしょう。
【nbが同様なことを主張するなら、たとえば、次のように表現したいと思います。
 私が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。私は、私自身について、私自身の感情や知覚や思考について、直接的な内的知覚をもっている。私は感情をもち、目的をもち、主体的に活動している。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだ、と。】 ここでおっしゃっていることは、まさにすべての人にとっての現実です。科学的世界観とそれ以外の世界観を分けるものは、この現実に関して科学的な説明を与えるかどうかだと思います。私の「物質の主体性」なり「未知のプラスα」というのは、大雑把な仮説ではありますが、科学的認識の方向性に沿ったものだと思います。
「科学的世界観の位置づけ」でおっしゃるように、唯物論、唯心論、宗教を含む「世界の科学的説明を採用したすべての世界観の総称」ではないと思います。
【そこでは、「物質」と「精神」というような概念は不要です。いささか過激に表現するならば、そもそもそれは問題のたて方が間違っている。実質的には意味のない、空疎な問いである。このような時代ががった、カビの生えた発想はとうに乗り越えられている、というのが私の考えです。】先に述べられたことは、我々の実感を単に記述されているだけであり、それに対する科学的説明を試みてもいらっしゃらないのです。そこでは科学的な説明は、「人間機械論」に至る「客観的な公準」としてすでに放棄されているのであり、何も乗り越えてはおられないのです。

返信
*  世界理解のモデルではない『物質と精神』 nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/24(月) 21:44:02


○ まず初めに、お詫びと訂正です。

>「未知」と「不可知」とはまったく異なります。「科学は進歩し続ける」ということが正しいとするならば、それは「常に『未知』がある」ということです。未知から既知にするのが、認識の発展であり、「不可知」ではありません。「不可知」は、永遠に不可知のままであり、そのようなものを私は想定しておりません。

 ご指摘の通りです。私が勝手に「未知」を「不可知」と置き換えてしまったこと、まことに申し訳ありません。次のように訂正させていただきます。

 もしも、
>「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではありません。
 というのであれば、それは、そこには「何か分からない未知のものがある」、ということのみをおっしゃっている、というふうにも受け取ることができます。「未知のものがある」というのは、いわばよく分からないということで、何かを具体的に説明する、主張する、というものではないでしょう。ここにおいて、「物質には主体性がある」という主張は、アッサリと取り下げられたのでしょうか。

○ 本題です。

>「物質と精神」というモデルをあらためて立てたわけではなく、科学的世界観によって説明すべき課題ではないでしょうか。

 これは課題の提示だったのですね! 「物質と精神」というモデルをたてられて、それを主張されたのではなくて。それなら、話がまるで違います。
 Kina さんによる”世界の合理的理解”のための理論モデル、という前提で私はこれまでものを申しておりました。これが世界を理解し説明する、Kina さんの世界観、世界のモデルとして主張されたものではないなら、私には格別に言うべきことはありません。
 私はとんでもない勘違いをしていたようです。Kina さんは、課題を提示しようとされていただけで、特に何も主張されてはおらなかった。
 そうであるなら、たとえば理論の形になっているかを吟味するとか、モデル内の概念の不明確さを問題にするとか、論理的な整合性や一貫性を問うとかいうことは、実に不適切なことです。また、主張を取り下げるとか、主張を変更される、とかいうこともないわけです。
 ごめんなさい。<(_ _)>

 以下は、いわば蛇足です。

 Kina さんは、『・・・』という実感を最初に与えられている前提とされている。
 その『・・・』を重要だと考えておられる。
 その『・・・』を何としても守ることを課題としておられる。
 そうすることが良いことだと考えておられる。

 『・・・』の中身はともかくとして、以上のようなことをおっしゃっているのだと、私は推測し、解釈し、理解しました。前にも述べたことがありますが、これが、Kina さんの「究極の選択」ならば、私はそれを尊重したいと思います。

 老婆心ながらということで、
・ そういうアプローチの仕方は既に挫折しているのではないか。
・ そういうアプローチの仕方に実りがあるとは思えない。
などと言ってみたところで、モデルを作るアプローチをしているわけではないのですから、余計なお世話というところでしょう。

 しかしそれだけでは終わらず、むしろ逆に、私にもKina さんのようにすることを勧め、そのようにしていないと批判される。
 しいて言えば、これが、Kina さんのご主張なのでしょう。

>桜井さんの物質観には、物質は自然法則に従うだけの受動的な存在とされているように私には思えます。

 私は、”物質観”というようなものを述べた記憶がありません。また、物質は受動的か能動的かというような発想も、私にはありません。

>私は物質が「未知のプラスα」を持ち、その「未知のプラスα」が人間の精神の主体性につながるものであって、「物質の主体性」とよぶか、「未知のプラスα」とよぶかは、重要ではないと申上げているのです。

 はい、これを問題提起というふうに考えると、私にも意味が通じなくはありません。

>「物質」と「精神」は、問題解決のためのアプローチではなく、「問題」そのものです。

 Kina さんには、それが”問題”なのだということは理解しました。

>私が辞書の意味を引用したのは、それぞれが勝手な用語を使っていては、議論がなりたたないことからです。したがって、私としましては、それぞれの用語に特別な意味を込める意図はないし、一般的な意味で使いたいことを申しているわけです。

 世界の理論モデルでないなら、私にはそれで何の問題もないと思います。

 >これは、私が「手を挙げようと思えば、手を挙げることができるし、手で物を持ち上げようと思えば、持ち上げることができます。」という普通のことを意味しております。

 「精神」が「物質」を動かす「原因になる」とか、「精神」が「物質」に「働きかける」ということは、以上のような「普通のこと」と同じだ、というふうに考えられているわけですね。それ以上の何も意味せず、それ以上の何も主張されていない。それなら私には、ことさら何も言うべきことはありません。「精神」や「物質」とは何なのかというようなご説明も不要です。

>このようなメカニズムはまだ人類にとっては未知のところだと思います。しかしながら、私たちが実感している自由意志や主体性が幻でも錯覚でもなく、物質の本性から理解しえるものであるとの立場をとることが、科学的世界観を徹底させるものだと思っております。

 私は、そうは思っておりません。

>実感を表現するだけであれば、科学的世界観ということはできません。

 その通りだと、私も思います。

>その実感に関する科学的説明を試みるのが科学的世界観だと思います。

 私は、そうとも思いません。

>そうであるならば、物質そのものに主体性なり自由意志なりを構成しえる本性を備えているとの物質観が誤りであるとか、自由意志が「錯覚」であるなどとは言えないのではないでしょうか。

 誤りだとか、錯覚であるなどと、私は言いません。

>二元論はそのスタートにおいて誤っていることはおっしゃるとおりだと思います。それを克服するのに、主観的側面からのアプローチと、客観的側面からのアプローチがあるのでしょう。

 Kina さんが”主観的側面からのアプローチと、客観的側面からのアプローチ”とおっしゃるのを、ここではじめて聞きました。
 ここから何か新しいアプローチや主張をなされる、ということなのでしょうか。

>ここでおっしゃっていることは、まさにすべての人にとっての現実です。科学的世界観とそれ以外の世界観を分けるものは、この現実に関して科学的な説明を与えるかどうかだと思います。

 そうかもしれません。

>私の「物質の主体性」なり「未知のプラスα」というのは、大雑把な仮説ではありますが、科学的認識の方向性に沿ったものだと思います。

 私は、そうは思いません。

>「科学的世界観の位置づけ」でおっしゃるように、唯物論、唯心論、宗教を含む「世界の科学的説明を採用したすべての世界観の総称」ではないと思います。

 私は、そう考えているので、そのように書きました。

>先に述べられたことは、我々の実感を単に記述されているだけであり、それに対する科学的説明を試みてもいらっしゃらないのです。

 おっしゃるとおりです。

>そこでは科学的な説明は、「人間機械論」に至る「客観的な公準」としてすでに放棄されているのであり、何も乗り越えてはおられないのです。

 私は、”「客観的な公準」から「人間機械論」に至る”とは考えておりませんし、”「客観的な公準」としてすでに放棄した”、というようなこともありません。
 なお、乗り越えられたと述べたのは、「問題のたて方」や「発想」のことであり、科学的説明が既にできた、というようなことを述べているわけではありません。


返信
*  Re:世界理解のモデルではない『物質と精神』 Kina (w178.z064221193.was-dc.dsl.cnc.net) 2006/07/25(火) 07:44:09
貴重なお時間を割いていただき、また、貴重なコメントをいただきましてありがとうございました。まだ議論は尽きてはいないと思いますが、私の目的は果たされたと思っております。
議論をさせていただきましたのも、元より桜井さんを説得することを考えていたわけではありませんし、むしろ、私のコメントをどのように考えられ、どのようなコメントをいただけるかに関心があったわけです。
議論させていただく中で、私のほうとしましては、自分にとって、自分の考えがよりはっきりしてきましたし、それなりの収穫があったと思っております。どうもありがとうございました。
また、そのうちコメントさせていただくことがあるかも知れません。今後ともよろしくお願い致します。

返信
*  議論は尽きてない? nbsakurai (202.234.138.210.bf.2iij.net) 2006/07/30(日) 15:11:28

 Kina さんの、”自分の考えがよりはっきりしてきました”というのと共通するところがあるのかもしれませんが、私は、お互いの立場・スタンス、興味・関心のありか、見方・視点の違いというようなものを、これまでにいくらか整理することができたのではないか、そういうふうに考えています。
 そういう意味で、”議論は尽きてはいない”というよりも、私の感触では、議論は未だ始まっていない、議論が始まるとすればこれからなのかな、という感じです。
 ”自分の考えがよりはっきりしてきました”というのには、私のほうとしましては至ることができませんでした。Kina さんが、これで”目的は果たされた”ということであれば、これで議論は尽きた、というほうがむしろシックリくるような、という感じです。
 それはともかく、今回の熱心なご発言、ありがとうございました。
 またいつか、何らかのコメントをお待ちしております。


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